「はい、一さん」

「…………ユメ」



騒ぎを起こさない限りは夜更けなど関係ないと、わたしは黙って酒樽に手を掛け来れば一さんがいつも口にするお酒を御銚子に流し入れた。

普段は二本しか用意しない御銚子、それを三本に増やしたのは特に理由など無い。

わたしが振り向きもせず黙って作業をしている様が一さんには異様に見えたのか、それともわたしの顔色に見慣れない変化でも見つけたのか、耳に届く限りほんの少し上擦った声で、とりあえずあんたは戻れと新八さんを島原へと帰したのが聞こえた。

よろしくやってろよ、こん畜生、なんて言いながら踵を返した新八さんの砂利を踏む音が遠くなる。

島原なんて、此処からじゃ歩けば殿方の足ならば四半刻も掛からない、酔いが覚めるより早く座敷を跨ぎ直すだろう。

そんなことを思いながらも無言でお酒の用意をしながら、お酒だけでは味気ないと今朝漬けた菜物と今夜煮た大根を皿に取って膳に乗せれば、一さんが深く溜息を吐いた声が聞こえた。

でもこんなのはいつものことだ、いつもわたしが只管口も動かして手も動かし、一さんが相槌を打つ。

ただ違うのは、わたしも無言というそれだけのことだ。

風も冷たく外は肌寒かったしいいだろうと一本は熱燗にすべく沸かした湯の中に御銚子ごと浸ける。

同時に一さんが草履を脱いで上がった音が聞こえたから、わたしは膳を持ってその背中を追って今に至るのだ。

いつもはこんな夜更けではない、まだ外も少し明るくて灯りは二つで充分な時間にこうして肩を並べる。

だけど今は三つ用意しようとこんな平屋の灯りなど高が知れているから暗がりが影を落とし、鍋に火を掛けているお陰で台所の方が部屋より明るかった。

いつもよりも一回り大きめのお猪口を用意して手渡せば、一さんの眉間に皺が寄った気がした、けれど気にしたら駄目な気がしてそのまま押し付ける。

お酌をしながら声を掛ければ、少し何か考えた後一気に口に流し込む。

そのお顔があまり美味しそうには見えなかったものだから、わたしは気持ち少し口唇を尖らせると勢いに任せて空のお猪口に再び御銚子をぶつけた。



「待て、」

「……何故ですか?」



一さんの言いたいことは解っているつもりだった、だけど敢えて何故かと返した。

お酒を注がせないようにとわたしの手首を掴んで制止させる一さんの手は、いつもとは比べ物にならないほどに熱い。

知ってるの、もう充分過ぎるほどにお酒を飲んできたことくらい。

だって傍に居るというそれだけで、貴方からはお酒の匂いがする。

でもそれ以上に鼻先を梅の香りが掠めるから、それが気に入らなくて何故かとわざと問うた。

お顔をじっと見遣れば、何が後ろめたいのか、ゆるりと視線を逸らす一さん。

沢山お酒を飲んでもあまりお顔に表れるのを見たことがなかったため、その耳が赤く染まっていることに気付いたのはついさっきだった。

目許がいつもよりも緩い、熱が篭っているのか眼球が揺れるたびに潤んで見えて、とても艶っぽいお顔をしている。

一緒にお酒を飲んで居てもそんなお顔、見せてくださったことはなかったのに芸者にはそんなお顔も見せるし、耳が赤くなるほどお酒も浴びるのですね。

思わず感情に任せて口唇の端から言葉が零れてしまいそうになった、だからついと端を噛んだ。

そんなわたしの変化には流石に気付いたのか、一さんが制止させていたわたしの手首の力を緩めて、



「…怒っているのか?」

「……怒ってなどいません」

「いや、機嫌が悪いだろう?」

「……それは……」



掛かった靄の名前が何て言うのか、わたしはもう気付いていた。

ああ、これは嫉妬なのだと。

芸者は仕事をしているだけだと解っているはずだったのに、こんな匂いを付けるほどお傍で酌をしていたのかと想像すれば、それだけで御銚子を持つ手が震え掛けた。

わたしですら気安く触れられないことだってあると言うのに、もっと触れたいと手を伸ばせば性に合わんと返されることだってあると言うのに。

まるで子供のようだと自分で思った、ううん、子供のようではなくてわたしは子供なのだと眉が顰む。

解っていただなんて割り切ったような振りをして、思い返せば割り切っていたのではなくて本気で考えたこともないだけだ。

わたしは一さん以外の男の人を知らない、一さん以外の誰かに想いを寄せたこともないし、正真正銘この人がわたしの初めての人なのだ。

一さんは最初から女の影など一切見せない人だった、だから他の誰かなんて疑ったこともなかったし、疑いようもなかった。

親しくなればなるほど女を手玉に取るような器用な方ではないと解るし、要はそんなところを考える必要がなかったのだ。

あれだけ強くて実直な方、他にも想いを寄せている人がいるのではないかと思ったことは流石にあるけれど、何故か消え失せた。

そんな何故かまでは覚えていないけれど、今思えば一さんの身の振り方でそう思ったのだろう。

そんなに遠くない昔を思い出せば、一さんのことで悩んだのは自分のことをどう思ってくれているのかということばかりで、他の誰かについて考え馳せた記憶はない。

詰まるところ、一さんのお傍に他の誰かが、という想像をしたことがないのだ。

そして、してみればこの様で、わたしはひとりそっと俯くと軋まない程度に歯を噛み合わせた。

こんな風にしてみたところで変わらないのは、胸の焦げるような痛みと鼻に届く梅の香、それから居心地の悪い雰囲気と沈黙。

掴まれたままの手首の体温も変わらずに温かく、制止するように力を入れる様子はないけれどその代わり離す気配もない。

だけど沈黙を続けてどれくらいか、すぐ横で小さな溜息が聞こえてわたしはほんの少し肩を強張らせた。

それから幾らも待つことなく離されたのは、掴まれていた手。

愛想を付かされたのだろうかと慌てて顔を上げると同時に一さんがお猪口を膳に戻して、それからわたしの顔を見ることもなくぽそりと呟いた、湯が沸いているぞ、と。

言われて台所を見遣れば、さっき火を点けた鍋が音を立て沸騰を知らせていて、そんな音にも気付かないほどわたしは未だ渦巻く靄に憑り付かれていたらしい。

腕の拘束もなくなってしまえば此処に居る理由は無い、湯が沸いていると教えられた以上立つ以外選択肢はなく、だけど暗がりにそっぽ向いて影を落とした一さんの表情が解らないと途端に不安になる。

悪い態度を見せて居たのは自分だというのに、一さんにそっぽ向かれると慌てるなど、自分勝手もいいところだ。

ご機嫌取りをしたいわけではないのだけど、今この場は離れ難いと身体が揺れる。

だけど早く行けと言われるのも言わせるのも嫌だと、わたしは仕方なく重い身体を持ち上げて台所へと脚を運んだ。

火を消してもすぐには沸騰が治まらないほどに熱された鍋の近くは、蒸気が立ち込めて酷く暑い。

この様子では御銚子に直接触るなどできないし、かと言ってこのまま放っておいたら半刻経っても飲めたものじゃないだろう。

ひとつ溜息を吐き出して、ならばと手拭いを手に絡ませ御銚子に触れ、わたしはふと思い止まった。

一さんにはもうお酒は必要ないじゃない、お酌は止められたしお猪口も置かれたし、そんな状態でわたしはこの酒をどうしようと言うのだろう。

大体自分が子供な所為で一さんを今、困らせている。

ううん、困らせているどころか下手をすればご機嫌を損ねた可能性もある、いつもあるはずの沈黙が今日は酷く痛い。

普段と違うのはどう見てもわたしの方、不満を胸に抱えるだけで聞いてくれたのに答えもしない、そんな態度が悪いわたしの方だ。

言わないのならば態度に出すべきではない、不満を抱えたままにしたくないのなら口に出して伝えるべきだ、そんなのは解っている。

だけどうまく言葉に出来なかったのは、こんな子供染みた思いを抱いたことが自分で恥ずかしく思い、そして戸惑っているからだ。

別に一さんの前で大人ぶっていたわけではない、けれど亡き母様が言っていた、嫉妬は醜い、と。

今までそれに無縁だった所為で、嫉妬がこんなにも酷い感情だとは知らなかった。

無駄に力は入るし胸は締め付けられるし、渦巻いた靄が胸中で轟音を立てて回る。

高がお酒を飲んだだけなのに、それなのにこんな醜い感情を持っただなんてそんなこと、知られたくなかった。

知られたくないのならば割り切らなければいけないのは解っている、一さんも言っていた、付き添えという命があったから従ったまでだと。

新選組の内部のお話など一さんは勿論しない、それが些細な出来事であろうと日常のことであろうと彼は内部の事情に関わるだろうことは一切口にしない人だった。

だから全然お仕事のことも解らないし、どんな方が在籍されているのかも解らないのが現状で、一さんが組長という役職に就いていることを知ったのですらつい最近のことだ。

新八さんがいい気分で居たことから今日は接待のような堅苦しい席ではないと予想は付く、ただ島原でお酒を飲んだだけ、それだけなのだ。

それだけなのに、それだけなのに、それだけなのに何故わたしはこんなにも靄に振り回されているのだろう。

どうしようと考えていつまでもこんなところに居ても仕方が無いと、吐き出したのは深い溜息。

ゆっくり吸い込んで静かに吐き出せば、はぁ、なんてわざとらしい声は何処にも無い。

もう一度、身体の中の渦を解くように深く息を吸い込めば、同時に浮かんでしまった下手な妄想も消えるだろうと、手拭いを宛がったまま掴んでいた御銚子を鍋から持ち上げて静かに平らな場所に置いた。

でもそれと同時に後ろで小さな衣擦れの音が聞こえて、



「…ユメ、」



肩がびくりと動いたのは呼ばれるとは思わなかったからだ、それから振り向く前に続けて一さんが声を上げた、話がある、と。

徐に踵を返せば、膳を少し端に寄せ、さっきよりも気持ち少し台所のわたしの方へと身体を向けた一さんがそこに居て、だけど暗がりの所為かお顔に影が落ちているからわたしの不安を煽った。

いつもと違うのはわたしだけだった、それなのに一さんもいつもと違うようになってしまって、心音に再び渦が宿る。

だけどいつまでも此処に立ち尽くして居られるわけはなく、わたしは一度視線を落とすと意を決して一さんの元へと歩を進めた。




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