聞き覚えの無い声が外で聞こえたのは、布団を敷いてそろそろ灯りを消し床に就こうかと思う時間だった。

京の賑やかな町並みを通り過ぎた場所にある此処は家々が並ぶにしては閑静な一角で、普段暗闇が拡がるこんな時間帯には鈴虫の音しか耳に届かないような処。

平穏なはずのこんな場所に数人の男の声が聞こえたら皆、押し入りではないだろうか、浪人がいざこざを起こしているのではないかと身構えるのが日課だった。

平屋のほとんどは貸家、だけど此処に身を置く人々の多くは店を経営していたり、または家族連れだったりで質素な生活をしている割には小金を懐に入れている人が多いと聞く。

同じく此処に身を寄せているわたしの家も元は商人をしていたため、両親を亡くし店を閉めてからも暮らすに困らない程度には持ち合わせていた。

わたしの生活はひとりきり、そんな日々も早三年が経とうとしている。

店は手放した、今は昔お世話になっていた呉服屋へ勤めている、ならば此処を出た方が身に迫る危険はない。

そう解ってはいるけれど貸家ではなく持ち家となっている我が家から出て行ったところで家を他に借りるほど裕福もないと、不穏な動きを見せる京の街外れで日夜気の抜けない生活を送っていた。

そんなわたしでも唯一気を休められる時がある、それは、



「………一さん…」



心底信頼のおける恋仲の人が此処を訪れてくれるときだ、名を斎藤一さんという。

わたしが此処を出て行かない理由のひとつが、彼の属する新選組の巡回場所に此処が入っているからだ。

勿論集落の中にまで来はしないけれど、それでも一さんが巡回してくださっていると思えばこんなに心強いことはないと思っていた。

仕事の最中に立ち寄ってくださることは一切ないけれど、時間に寄ればお顔を見ることもあるし、非番の日にも脚を運んでくださる。

壬生狼と聞けば周りの家々の人は良い顔をしない、斬った殺したとそんなことに巻き沿えにされたら堪らないと戸を閉めてしまう。

わたしも最初は恐ろしい人かと尻込みしたけれど、今では一さんの心根の優しさを知っているから何を言われようと構わないと心温かく出来るのだ、だけど。



「……あ、灯り…っ」



それでもこんな夜の日は心臓を痛めつけるような恐怖にさい悩まされる。

様子を伺えない暗がりの外、耳に慣れない男の声と家に近づいてくる砂利を踏む音、こんな時間に知り合いが訪ねてくることはまず有り得ない。

家を通り過ぎてくれればこの胸の痛みも恐怖も薄れるのだけど、その僅かな時間がわたしの不安を煽った。

砂利を踏む音が、わたしの寿命を削る刃のようで聞くに堪えない。

こんなときには特に嫌なことを思い出す、先月、表通りの商家に不逞浪士が押し入り一家が皆殺しに遭っただとか、反対の集落に賊が入り奥方様が乱暴をされただとか、今思い出す必要など何処にもないものが次々と脳裏に浮かんでは恐怖となって浸透していく。

背筋がぶるりと震えてしまう、そんな自分に鞭打つように思い切って咥内に溜まった唾を飲み下すと、震える手で灯りの取っ手を掴み小さな炎に向かって息を吹きかけた。

ふっ、と揺れただけで消えない火はわたしの恐怖を更に煽る。

慌ててもう一度、と息を吹き掛けるけれど慌てすぎたのか、今度は火を掠めることすらせず小さな音が部屋の中に木霊して。

だけどそのときだった、家の戸を叩く音が耳に届いたのは。

それと同時に聞こえた小さな、だけど響く声。



「……ユメ」

「…………は、」

「すまん、俺だ…」



叩かれた戸は四回、そしてわたしの名前を呼んでもう一回、これは日中でも一さんが此処の戸を叩くときにやる癖だ。

ううん、癖と言ったなら可笑しい、一さんは何時か言った。

もしも俺を騙る輩が来たならばこれを覚えておけ、俺はこれ以外此処の戸は叩かん、と。

まるで秘め事のようだとわたしは笑って、だけど一さんは笑い事ではないのだぞと眉を顰めて、そんな何時かを思い出したわたしは灯りを畳に置き直すとそのまま戸口まで脚を早めた。



「一さん……っ」



逸る気持ちを抑えながら、ご近所迷惑にならないようにと支えを退けるとゆっくり戸口を引く。

だけど建て付けがいいとは言い難い戸はがたがたと音を立てわたしの焦りを一さんに教えて、そんなわたしが可笑しかったのか、まるで助けるように彼の手がするりと僅かに開いた戸口から現れた。

白く骨張った長い指、綺麗に切り揃えられた爪先が暗がりでも見える、この手は一さんの手だ、間違いない。

でもそんな一さんの指を見てから、わたしはふと酷い違和感に襲われて開けようとしていた戸から力を抜いた。

そして気が付いた違和感に素直に小首を傾げたのだ、何故、何故一さんはこんな時間に此処に姿を現すのだろう、と。

今までこんな夜更けに此処を訪れたことがあっただろうか、ううん、そんなことはただの一度もなかった。

一さんとわたしが出逢ったのは凡そ2年と半年も前のこと、あの頃の一さんは京に来たばかりで、まだ新選組も浪士組という名前の頃だった。

最初の印象は浪士組の人だというだけでそれこそ嫌悪感を抱いていた、けれど少しずつ少しずつ、多くは語らない、変わり映えのない表情しか見せない一さんの眼色が優しい色になっていくのが嬉しくていたっけ。

偶然というには出来すぎるほど出先で逢っていた一さん、何に引かれてそうあったのか、今思い返しても解らないほどで。

またあんたか、なんて科白、何度聞いたか解らない。

こっちの科白です、なんて科白も何度吐いたか解らない。

でもそんな一さんのことが逢えば逢うほど気になり、気になり出せば気持ちは抑えられず、此処に居れば逢えるやもしれないと偶然を装い脚を止めるようになったのは必然だった。

わざとを足した後も因果は崩れることなく、今では出逢うべくして出逢ったのではないかとそんな乙女の妄想甚だしいことすら思うほどだ。

恐らく周りから見たら、あの頃のわたしたちですら恋仲以外の何者にも見えなかったと思う。

自分でも気づかない内に縮まっていた距離を知ったときは本当に、今死んでも悔いはないと思うほど心温かくして。

だけどこの口唇を重ねるまで一さんがどう思ってくださっているのかいつも気にしていたし、枕を交わすまで本当にわたしは一さんの特別なのだろうかと不安しかなかった。

手隙になれば様子を見に来てもくださるし、流石に此処まで寵愛を頂いたら不満などはない。

零したら罰が当たりかねない、のだけど。

やはり口数が少ない所為か、そのときに欲しい言葉は頂けないし、忙しい御身故もっとお会いしたいとも言えず、ひとり想いは募るばかり。

だから突然の来訪には胸を躍らせるし、こうして不安なときには何よりも愛おしくて堪らないと思うわけで。

でもそんな人だからこそ、何故、という気持ちが素直に隠せない。

いつだって遅くなる前には戻らねばとわたしに背を向けていた一さん、こんな夜更けに一体何があったのかと胸の温かみより戸惑う気持ちが心を覆う。

それに砂利を踏む音、一さんの足音ではなかった。

一さんはもっと静かに、本当にこの砂利の上を歩いたのかと疑うほど静かにこの戸を叩く。

同時に思い返したのは外の声だ、一さんの声を間違えるはずがない、つまりわたしが聞いたのは別の誰かの声で、



「…夜更けにすまん、」

「…一さん」



わたしの力の入れ具合が悪かったのか、戸から手をも離せば呆気なく鈍い音を立て、暗闇だとばかり思っていた外から僅かな月明かりと共に漆黒の着物が映って声を上げた。

初夏だというのにまだ少し風が冷たい、深夜の所為だろうか、一さんの白い襟巻きが宙に舞う。

だけど襟巻きから眼を離し、一さんのお顔を見上げると同時に見知らぬ声が遠慮なく耳に届いてわたしは思わず肩を竦めた。



「…んだよぉ…本当に女かよぉ、斎藤っ」

「気が済んだか?新八。ならば店に戻れ」

「お前の事だから揚屋に上がるのにびびって口をついたんだと思ったのによう」

「…女を金で買う趣味は無い。誤解を誘う物言いをするな、俺は付き添うようにとの命で行ったまでだ」



ほんの少し呂律が回っていない、そんな口調で一さんの後ろで項垂れた声を出すのは緑色の鉢巻を頭に巻いた大柄な男の人。

そういえば巡察している姿を何処かで見たのか、そのお顔には見覚えがあって新選組の人だと理解するのは早かった。

ただ、一さん以外の新選組の方とわたしは全くと言っていいほど接点はなく、一さんが此処へ誰かを連れてくることも当たり前になかったために関わる機会もなかったので驚きは隠せない。

だけどわたしはそんなことよりも、とてもとても気になることが出来てしまった。

彼が何処の何方かなんてことよりも、一さんが何故こんな夜更けに此処にいらしたのかなんてことよりも、この現状何を如何すればいいのかだなんてそんなことよりも。



「………揚屋?」



ぽつりと呟いた声は、きっと新八と呼ばれた方には届いていなかったと思う。

でも一さんにはしっかり届いたのか、わたしの言葉に一瞬顎を上げたのが見えた。

戸を開けると同時に新八さんへと振り返った一さんのお顔は拝見出来ない、だけどその顎先がひくりと上がったのはこの眼が捉えていたのだ。

そんなわたしと一さんの様子など知る由もないと言わんばかりの新八さんは、一さんの言葉に更に突っ掛かりを見せる。

斎藤…お前案外狡いな、いい気分で飲んでたろ?、なんてまるでわたしが居るからわざと茶化すかのように。

新八さんが相当酔っているのは傍目で見ても解る、恐らくかなりの量を飲んだのだろう。

それでも足許はしっかりしているのだからお酒に強い人なのだと思う、きっと一さんと同じなんだ、江戸の殿方はお酒に強いらしい。

御二人の口振りからして察するに、組仲間で座敷遊びをしていたのは間違いない。

それから女遊びをするのに一さんはわたしが居るからと帰ってきて、新八さんが本当かどうか確かめに来た、と。

まあよくもご丁寧に説明してくださってありがとうございますと頭を下げたくなる気持ちだ、だけどこの胸の引っ掛かりが取れないのは何故だろう。

一さんが綺麗な芸者を侍らせお酌をさせ、いい気分で飲んでいたのを想像したからだろうか。

一さんは座敷遊びなどしないと、生娘のようなことを思っていたわけではない。

殿方が座敷遊びをするのは何方も同じだし、だけどそれは大概遊びでしかない、それは解っているつもりだ。

その証拠に彼はこうして、綺麗な芸者よりもわたしのところへ来てくれて、それなのに何故この胸はくすんだ靄が晴れないのだろう。

女を金で買う趣味はないと言った、ならば、



「お金が絡まなかったらどんな女でも良いのですか?」



声に出したのはわざとだった、だけどやはり新八さんには届かない。

その代わり、流石にその科白は思うところがあったのか、一さんはこれでもかと言わんばかりに眼を見開いてわたしの方へと振り返った。

何故そんな科白が出るのだと、まるでそう言いたそうなお顔は初めて見る驚いたお顔。

だけどもやの晴れないわたしは、ふい、と視線を逸らして。

こんなにも反抗的な態度を一さんに取ったのは初めてだった、でも切なさが込み上がって笑顔など作れない。

寿命を削られんばかりの恐怖からあんなにも心温まる気持ちになったのに、此処へ来て落とされる。

そんなわたしの気分の浮き沈みなど一さんには関係のないことなのだけど、掛かってしまったもやはどうにもならないとそのまま踵を返した。

ユメっ、とか細い声が聞こえる、低いのに良く通る一さんの声ではないようなか細い声。

だけどわたしはそんなお声に耳を貸さず、草履を脱ぐと枕元まで脚を進め、もう残り少ない灯りを手に取ると再び踵を返し台所の灯りに火を分けた。




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