家に帰ってテレビを観ていても、ご飯を食べていてもお風呂に入っても居ても思い出すのは彼の声。

2人の会話の全てを記憶しているんじゃないかと思うほど朝のそれが鮮明に浮かんで来ては、煩く流れるシャワーの音に掻き消されて。

それでもそんな音で覚えてしまっている声が脳内から抹消できるわけなんてなくて、耳の奥の深いところでずっと2人が会話していた。

それからふと浮かんだ気持ちは羨ましいというそれだった。

ヘイスケくんに向けられた微笑みは凄く優しくて、恐らく最後のあの微笑みを見なかったらそんなことは思わなかったと思うの。

一度浮かんだ気持ちは中々消えない、どうして羨ましいと思うのと自問しても、そのどうしてなんて答えは出てこなかった。

ずっと知ることはなかっただろう彼の名前が、ずっと聞くことなんてなかっただろう彼の声が、耳に焼き付いて離れない。

ただ悶々とすることしか出来なかった休日はあっという間に過ぎて、そして今日は月曜日。

今日も出会ったあの日のように朝から小雨が降っていて、わたしは折り畳みの傘を差して駅までの慣れた通学路を歩いた、だけど。

いつものように7時24分の電車に乗り込むつもりで駅の改札を潜ろうとしたのに何故か普段より3倍近く人混みで溢れかえっていて、まるで時間を間違えたかのような光景がそこにはあった。

何事だろうと思いつつも脚を進めれば伝言掲示板に人身事故の文字、上下線とも遅れが出ているという知らせにわたしは何処かそわそわして。

それから途中で停まってしまっているという電車が駅のホームに着いたのは、24分を大きく過ぎた50分のことだった。

いつもなら好きな車両に乗って車内を歩いて3両目まで行くのだけど今日はこの混みよう、絶対に車内を歩いて行くことは出来ないと思ったわたしは3両目が停まる場所まで歩を進めて。

だけどそうしようと思いついて実行に移した頃には既に人が列を成して並んでいて、遅かったかとほんのり溜息を吐くしかない。

出来ることならば乗りたくない、そう思った。

学校を遅刻してでも乗りたくない、だって一月前のあの憂鬱さが既にこのホームの混みようで甦っている。

どうせ潰されるし、否が応でも知らない人と密着するんだろうし、きっと息が詰まって泣き出したくなる。

先週までが快適だった所為で、その快適さに慣れすぎた所為でわたしの満員電車への恐怖は今や2倍にも3倍にも膨れ上がっていた。

だけど、電車がホームに到着して目的の3両目の扉が開いたとき、わたしの心音はまたしても大きく鼓動を打ったのだ。

いつもと同じ手すりに寄り掛かってはいるけれど本を読む余裕はないのか、少し窮屈そうに窓の外を見遣っているハジメくんと目が合った。

その視線はやっぱり直ぐに逸らされてしまったけれど、億劫なわたしを電車に引き寄せるには充分過ぎる効力があって。

どきどきと煩く鳴り響く心音にまた身体が震える、どうしてこんなにも煩い音を立てるんだろう。

身体が震える所為で足許も覚束無い、でもだからって変な行動したらおかしいでしょうと奮い立たせて電車に乗り込んだ。

けれど、混み過ぎていて乗り込んだそこから一歩も動けない所為で、わたしは真横にハジメくんが居る形のまま棒立ちする羽目になってしまったのだ。

いつもは遠く離れていた、そこからちらちらと見ては見たけれどこんな、手を動かせばすぐに触れられる近距離、こんなのわたしは望んでいない。

真横に、いつも遠くから見ていたはずのその人が居る、そう思えば余計に心音は煩く響いて、目で見て解るほどに腕が震えた。

ダメだ、無理、流石にこんなのは無理。

どうしてそう思ったのかなんて理由はない、ううん、あったのかもしれないけれどそんな理由を探せるところまで気が回らない。

本能がそう思ってしまった、それだけ、ただそれだけ。

その本能に従い、やっぱり降りようと踵を返し身体を反転させようとした、だけど。

神様は意地悪だ、振り返った瞬間無情にも逃げる為の扉は硬く閉ざされ、わたしは自ら目の前で変な行動を取ってしまったことと出られなかった切なさに頬を赤く染めるしかなかった。

でも変な行動を取ってしまったことを後悔している暇がないのが現実だった、少女漫画とかなら恥ずかしさのあまりに彼に背を向けてひとりで俯いて色んな思考を繰り広げる暇があるだろう。

そんな思考すらさせて貰えない現実がわたしに襲い掛かったのは、扉が閉まり絶望感に喉がひゅっと音を立てたと同時だった。

電車が発車し、外の景色がゆっくりと流れていく。

でも次の瞬間耳を突くような音と共に急ブレーキが掛かり、そんなこと予想だにしていなかった車内の人込みが雪崩れるように前方へと転がって、





「……ふ、あっ」





何処にも掴まっていない、ただ棒立ちしていただけのわたしも例に漏れずバランスを崩して真横にハイジャンプ。

間抜けな声と共に、ぶつかるように思い切り全体重を掛けてしまった相手は、顔を上げずともすぐに解った。

瞬間的に手のひらで感じたのは体温、女の子である自分の柔らかい身体しか知らない所為で咄嗟には解らなかった意外と硬い身体。

わたしからの衝撃を耐えるために吐き出されただろう吐息がすぐ顔の上で聞こえて、驚きに目を見開いて蠢けばふわりと揺れる髪の毛が頬を掠める。

ブレーキの掛かった車体がしっかりと停まった所為で、今度は逆方向に重力が掛かって人の波が押し戻る。

けれど、思い切り抱きついてしまったからかわたしの身体は即座に離れることが出来ず、どうしていいのか解らないとただ目を見開いたまま硬直させていた。

嘘だ、こんなことになるなんて予想してない、確かにわたしが彼と話したらとか色んなことをこの休日いっぱい考えたりもした。

だけどこんなアクシデントは予想の範疇外で、そもそもわたしの人生においてこんなことが起こるなんて微塵も想像していなくて、詰まるところどうしたらいいのか解らない。

頭が働かない、身体が動かない、でもずっとこのまま抱きついているわけにもいかなければ、何も言わずにこうしていたらただの迷惑にしかならない。

じゃあどうすればいいの?そんなの決まってる、離れればいいじゃない。

解ってる、そんなこと解ってる、解ってるけど身体が震えて思うように動かない。

パニックだ、言い表しがたいパニックに陥っている。

だけどこんな破裂しそうな心音と走りすぎて暴走し掛けた思考を救ったのはハジメくんの声で、





「…大丈夫か?」

「………あっ、」




ゆっくりと顔を上げれば目と鼻の先にはハジメくんの顔、ほんの少ししか変わらない背丈なのか息遣いが掛かるほど近くにその顔はあって、あまりの近さに思わず声が零れた。

ハジメくんも此処まで近いとは思わなかったのか、わたしが顔を上げることを予想していなかったのか、少し顔を引いていつものようにほんのりと目を逸らす。

ううん、いつものようにじゃない、気まずそうというか、恥ずかしそうというか、バツが悪いというか、そんな困った表情をわたしに見せて。

それからゆっくりとわたしの肩に手を掛けると、此処はあんたが居た方がいいだろうと視線を逸らしたままいつもの特等席をわたしに譲るようそっと自らの身体を横へとずらした。

そのままわたしと手すりの間を抜ければ、何処へ行くわけでもなく目の前にまだ彼は居て、本当は居心地が悪いのだろうに気を取り直すように小さく咳払い。

譲られた手すりは長い時間此処に寄り掛かっていた所為か、ハジメくんの体温が残っている。





「あ、あの……」

「…………」

「………あり、がとう…」





声が擦れた、何もしてないのに息が切れそう。

だけど必死に出した声は、あぁ、という短い返事が聞こえたことで彼に届いたとわたしに教えて、同時にまた大きな心音が鈍い音を奏でながら鳴り響く。

ゆっくりと再び走り出した電車の振動を合図にもう一度彼を見遣れば目が合って、今度は彼も少し思うところがあるのか戸惑っているのか、そっと口角を上げ微笑んで。

そんな笑みを向けられて、込み上がる気持ちが抑えられるわけがない。

理由はどうであれ見ているだけだったハジメくんがわたしを見て、わたしと話して、視線どころか笑みをくれている。

その事実が何故だか嬉しくて堪らないと、わたしはまたしても泣きそうだった。

かあっと身体中から沸き上がる熱が治まらない、それどころかほんのり汗を浮かべそうなほど熱りだし、掴まっている手すりが酷く滑る。

鼓動は一向に静まらないし息苦しくなるほどにわたしを追い詰めて、なのに嬉しくて堪らないと酷く陽気な気持ちが胸いっぱいに広がって身体と心がばらばらだ。

こんな状態を何と言うんだろう、この気持ちを何と言うんだろう。

人が多すぎて酸欠でも起こしているのだろうか、ううん、そんなはずはない、そこまで混みすぎているわけでもなければさっき車内は酸素を取り込んだばかりだ。

それでも呼吸困難に陥りそうになっているのはきっと、ハジメくんの隣に居るからだ。

ちらりともう一度視線を向ければ彼は真っ直ぐに何もない宙を見つめてそこに立っている、場所を譲りはしたけれど真隣で手すりの端に掴まって。

いつも此処で黙って本を読んでいた、静かに黙って、薄桜高校前駅に着くまでただ只管。

そんなハジメくんが一歩そこを動いただけでこんなにも違う風に見えるなんて、どれだけわたしは此処にいるだけの彼を見ていたんだろう。

そうして気付いたのは、もっと色んな彼を見たいという願望がここに沸いていることだ。

少しずつ知って行った、聞くことさえ出来ないだろうと思っていた声を聞いて、知ることすらないだろうと思っていた名前を知って、仲良く喋ることの出来る誰かが羨ましいと思った。

アクシデントと言えどこうして話すことが出来て、触れることが出来て、ヘイスケくんへ向けた微笑みとまではいかないけれど一生向けられることなんて無さそうな笑みを貰って、そうしたらわたしは今どうなっている?

もっと触れたいと思った、もっと声が聞きたい、ううん、声が聞きたいだけじゃない、わたしが話をしたい。

見ているだけじゃ物足りなく感じて、出来ることならばわたしのことも見て欲しいと思った。

見つめて、触れて、名前を呼んで、わたししか知らないような彼の何かが欲しいと、とんでもない欲が沸き上がって身体が震えだす。










窒息しそう、君のせいで










薄桜高校前駅で彼を追って降りてしまったのは、思わず。

わたしは苦しくて堪らないこの気持ちが何なのか解らないまま、ただ感情のみで言葉を綴るしか出来ない子供だった。





「あ、あの…っ、」

「………あんた…電車…」

「わたし、」





この知りたいと思う感情が恋であると、そう気付いたのはもっとずっと後。

ただ今は、せめて名前だけでも覚えて欲しいと、名前だけでも知りたいと、





「佐藤ユメです」

「…………」

「わたし、佐藤ユメって、言います…あの……」

「……………」

「お名前、教えてください…」

「…………斎藤、一」




不器用にも全力で一歩踏み出すだけ。






end
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