わたしの住む町は郊外だから、朝、学校へ行くために電車に乗ったところで酷く混んだりすることはなかった。

だけどそれも快速で4駅まで、そこを過ぎれば一気に人口は増え、車内は息苦しいほどに人で溢れいつだって大変な思いをするのだ。

背の低いわたしはいつも人混みに押し潰されて揉みくちゃにされ、それだけならいざ知らず、ラッシュ時という所為か痴漢に遭うことだって頻繁だった。

そんな億劫な毎朝に嫌気が差し、いつもよりも随分早く電車に乗り込んだ一月前のことだった、彼に出会ったのは。

7時24分、それは普段よりも凡そ40分早い電車。

朝が来るのが嫌で嫌で、満足に睡眠も出来ないまま早く目覚めた雨の降った月曜日のこと。

時間があるにも関わらず、ホームに来ていた電車に急いで乗り込んだのは一本でも早い方が混んでいないだろうというそんな単純な理由だった気がする、今となっては大して覚えていないんだけど。

乗り込んだ後ろから2両目の車内は、朝早いにも関わらず空席も疎ら程度でざわめきもある。

初めて乗り込んだ時間帯の所為か、必ずひとりは見たことある人が居るはずなのにそこに並ぶのは見知らぬ顔ぶればかり。

そんなそわそわとした気持ちに押されて、わたしはほんの少しの違和感と冒険心でゆっくりと前の車両に脚を進ませた。

10両編成の電車は前から3両目が丁度わたしの降りる駅のホームの階段口になる。

普段の時間に乗車していれば、乗り込んですぐ身動きひとつ取れないなんてことにはならないけれど、それでも人込みを掻き分けなければ他の車両になんて行くことは出来ない。

どうせどの車両に行ったって後の混みようは変わらないしと、歩くことの面倒さも手伝っていつもは乗り込んだ車両に留まっていたのだけど、その日は掻き分ける人込みもないと進む脚が止まらなかった。

前の車両へと近づけば近づくほど空席はどんどん多くなる、それでもわたしは脚を止めることなく、遂に3両目へと脚を踏み入れた。

ドアに手を掛けスライドさせると同時、運悪く緩やかなカーブに差し掛かって思わずよろめいたのは次の瞬間、だけどしっかりと扉に掴まりそのまま反動で3両目へとジャンプ。

トン、と音を立てて着地したと同時に真後ろのドアが勢い良く締まり、煩くしてしまったと内心舌を出しながら車内の様子を伺うため恐る恐る顔を上げて。

そんな刹那だった、見知らぬ男の子と視線が交わったのは。

視線がかち合ったのはほんの一瞬のこと、向けられた視線は静かだった車内に響いた突然の騒音が気になったという、そんな感じの他愛の無いもの。

騒音の正体が解れば興味も何もないのか、名も知らない彼は何のアクションをすることもなく静かに視線を手にした本に戻すと、わたしが此処へ来るまでもずっとそうだったのか黙って次のページを捲った。

見遣れば車内にはわたしを含め5人しかいない、音楽を聴きながら顔を伏せているOL、同じく音楽を聴きながら口を開け思い切り寝ている大学生風のお兄さんにゲーム機にイヤホンを挿して画面に夢中になっているサラリーマン、それにわたしと彼の5人。

耳にイヤホンなんか付けてればそりゃドアが開いたところで気になりっこない、ただひとり、振り向いた彼だけは活字に目を落とし静かに持て余す暇を潰していた。

見遣ればすぐに解るのは薄桜高校の生徒だということ、薄桜高校は友達が何人か行っているし、そういえばうちの学校よりも始業時間が早いと聞いたことを思い出す。

それでも10分やこそらだし、隣の西高みたいに理数科クラスに朝7時から始まる0校時なんてものがあるという話も薄桜高校では聞いたことがない。

朝練にしてはゆっくりした時間だし、ならば彼は何故こんな早い時間に学校へ行っているのだろうか、もしかしたらわたしと同じく混むのが嫌だから早く来ているのかな?なんて。

乗り込んだこの電車に同じ学生が居なかったものだから勝手に親近感が沸いたわたしは、煩くしてごめんねと心の中で呟くと同時、こんな早い時間に電車に乗っている彼の朝が早い理由なんかを想像しながらゆっくりと近くの座席に腰掛けた。

だけど着席してすぐ襲った違和感に、わたしはもう一度視線が交わっただけの名前も知らない彼を見遣ってしまった。

車両には5人、勿論空席だらけ、なのに彼はドアの手すりに寄り掛かり立っている。

この状況でわざわざ立っていることなんてないのに何故?と激しい違和感を覚えたのだ。

薄桜高校はうちの高校の2つ手前の駅、その名も薄桜高校前駅というそのままの駅名、だけど時間にすればここからじゃまだ20分近くある。

一駅で降りるのならば立っていても解らないことはないけれど何故わざわざ立っているのだろうかと、わたしは酷くどうでもいいことに小首を傾げた。

本を読むならば座っていた方が読み易いし、第一こんな空席だらけの中ひとり立っていたら逆に目を引く。

わたしが座った席は彼の立っている手すり側とは反対の席、丁度斜めのラインで目に入るので余計に気になったのを今でもはっきりと覚えている。

あの日は結局わたしもチラチラと何故か目立つ彼が気になって薄桜高校前までずっと、足をぱたぱたとプラつかせながら時間を潰していたっけ。

次の日もわたしは同じ電車に乗った、やっぱり乗車後4つ目の駅を過ぎた辺りからは座席も埋まっていたけれどいつもの電車と比べると天と地ほどの快適さで、その快適さがわたしの心を軽くしてくれたお陰で安眠することの出来たわたしは何の迷いもなく早い時間に玄関の扉を開け通学路を歩いた。

乗り込めば向かうのは勿論3両目、やっぱり彼は昨日と同じ電車に乗っていて、昨日と同じドア横の手すりに寄り掛かって本を読んでいる。

次の日も、その次の日も、そのまた次の日も同じ場所で本を読んでいて、前日までの本は読みきってしまったのか違う本になっていたのにまで気づいてしまった。

次の週もわたしは同じ電車の同じ車両に乗っていた、名前が解らない彼を心の中でわたあめくんと呼ぶことにしたのはこの頃だったと思う。

振動で揺さ振られるたびに柔らかそうな髪の毛がふわふわと宙で遊んで、その髪の毛を見るのが凄く好きだった。

最初は綿毛みたいだとか思ったんだけど、綿毛くんじゃ流石に可愛くないしと少し悩んで、そうだ、機械から絡め取られるわたあめに似ていると思い立ちわたあめくんに決定したのだ。

あまりの発見に思わず電車の中で小さな声を上げてしまい、また彼がわたしを見たけれど、今思い返せば彼がわたしを見たのはそのときと最初の2度だけだった気がする。

何れもほんの一瞬、向けられた目は何を騒いでいるという怪訝な視線であってそこに何も意味はないのだけど、何故か彼がわたしを見たという事実がドキドキして堪らなかった。

わたあめくんと同じ電車に乗るようになって3週目は、もう同じ空間に居ることが当たり前になっていた。

勿論、それは勝手にわたしが思っているだけでわたあめくんには関係なんてないんだけど、毎朝心の中でおはようございますと呟くし、今日はいいお天気ですねと窓の外を確認しては彼を見遣ったりして。

普段は本にカバーが掛かっているのだけど3週目の初めに読んでいた本にはカバーが掛かっていなくて、視力2.0を誇るわたしは小さな文字を遠くから読み取ると帰りに同じ本を購入してみたりなんかしてひとり距離を縮めていた。

本なんて読まないくせにどういう風の吹き回しだと怪訝な目を親に向けられたけれど、そんなことはどうでもいい。

いつもいつも真剣に何を読んでいるのだろうかと、わたあめくんの頭の中が気になって周りの目なんか気にもならなかった。

そんな風に夢中でかじり付いた癖にやっぱり難しすぎて意味が解らず、凡そ3時間程度だろうか、投げ出してテレビのスイッチを入れるところがわたしらしくて溜息が出る。

週末金曜日のわたあめくんは部活の道具だろうか、荷物が増えていて特に目を惹いた。

最初に目に入ったのは長い袋に入った棒状の荷物、素人のわたしでもそれが剣道の竹刀だと解ったのは中学時代、体育の選択授業でやったお陰だろう。

そっか、わたあめくんは剣道部なんだ、うん、確かに王道なサッカー部っぽくはないしバスケ部にしてはちょっと背が足りなさそうなんて失礼なことも思ってみる。

というか、どちらかといえばスポーツをしている感じには見えない、本を読んでいるイメージが強い所為だからか、その醸し出す雰囲気が大人しめだからか。

やっていても文化部っぽいし、なんか図書委員とか似合いそうだなと静かに口角を上げた。

放課後の図書室でひとり静かに勉強をやっていたり、読書に集中して時間を忘れてそうなそんなイメージがこびり付いて離れない。

だけどこうして目の前の現実を見て想像すると、なるほど剣道だったら似合うなぁなんて、にまにまと微笑むのが止められなかった。

わたしの剣道部のイメージはちょっとマイナーだ、武道だし、汗を掻いて身体を動かすっていうより精神を鍛えるって感じだし、なんか古風なイメージが定着している。

そのお陰か受け入れるのは早くて、わたしのわたあめくんデータに剣道部という項目がひとつ追加されたのだ。

数十分だけ同じ空間の中に居るという以外何の接点もないわたあめくんとは、きっと話すこともなければ彼の声を聞くこともないんだろう。

こうして少しずつ少しずつ、時々変わる持ち物なんかで彼の日常を知ることは出来るけれど、きっとそれ以上はない。

まあ、それ以上を知ってどうなると言うのだろうか。

ただ電車で一緒になるだけの人を知ってわたしに何の得になるというのだろうか、そんな得は特別何も無い。

ただ朝の穏やかな時間、暇とも呼べる時間に彼が居ることでわたしは退屈を凌いでいるに過ぎないと、そう思っていた。

そんな代わり映えの無い日常に思い切り転機が訪れたのは4週目、先週の金曜日だった。

わたしはいつものようにその車両に乗っていて、彼もいつもと変わらず同じ車両のいつもと同じ手すりに寄り掛かって本を読んでいて。

いつもと変わらない朝のはずだった、だけどその変わらない朝が壊れたのは席に着いて2駅目のことだった。





「あー、一くん!」





扉が開く大きな音が聞こえたと同時、それ以上の大きな声で聞き慣れない名前を呼んだ見ず知らずの男の子がひとり。

静かな車内に弾丸のように割って入ってきたものだからわたしは思わず目を見開いて、ついさっき自分も入ってきたその扉を見遣った。

目のまん丸な彼は少し大きめのバッグを肩に掛けたまま薄桜高校の制服を着崩して、真っ直ぐにわたあめくんの方を見遣りながら、おはーなんて口にしてこの車両に入ってくる。

どう考えたってわたあめくんの友達だ、ん?友達?でもなんかイメージが追いつかない。

どう見ても2人のイメージというか雰囲気の差が激しすぎる、そう思ってもう一度わたあめくんに視線を戻そうとした瞬間、





「平助、騒がしくするな、目立つ」





見遣ったと同時だった、わたあめくんの口許が小さく動いて声が届いたのは。

瞬間的に胸が高鳴ったのは何でだろう、きゅうっと身悶えそうになるほど締め付けられたのは何でだろう。

高鳴った心音の所為か急激に首許を熱くした身体は、ヘイスケと呼ばれた彼がわたあめくんに話しかける度に勢いを増して、彼がそれに返す声が聞こえれば指先から徐々に震えだす。

ぎゅっと腿の上で握り締めた拳の中は気付けば手汗がいっぱいで、いつもならば平然と彼をチラ見出来るのに、この瞬間は顔すらも上げられなかった。

ヘイスケという子が何度もハジメくんと彼を呼ぶ、知ることなんてなかったはずの名前が頭の中で木霊して、何度も何度も彼の名前を頭の中でリピートする。

ハジメくんハジメくんハジメくん、どういう字を書くんだろうとか、じゃあ苗字は何て言うんだろうとか、そんなことを考え出したのは学校に着いて教室に入り自分の席に座って落ち着いてからだった。

わたしがいつもわたあめくんと呼んでいたその人をハジメくんと心の中で呼び出したのは、この瞬間から。

そんなハジメくんの声はわたしが想像していたまんまの声で、物静かな喋り方も外見から連想できるイメージそのものだった。

今日のテスト勉強してないからやばいよと愛嬌たっぷりに零すヘイスケくんに、日頃復習していれば焦ることもないのだがと返す様なんて、目の前に居なければ床をごろごろと転がりたい衝動に駆られるほどイメージ通り。

ほんの数十分、だけどヘイスケくんが沢山話してくれるから一生知ることも無いと思っていたハジメくんの色んな情報が耳に飛び込んできて、彼らが降りて学校に着くまでの僅かな時間、わたしは放心したように座席に項垂れていた。

薄桜高校の2年生で、部活の顧問の先生が凄く厳しくて、でもハジメくんはとてもその先生をリスペクトしていて数学が得意。

来週末に剣道の大会があって放課後遅くまで練習しなければいけなくて休みも潰れ、だけど剣道が好きらしく好きなことをやれているのは嬉しいことだと呟いた。

薄桜高校前駅に到着したとき、思わず顔を上げたら横顔だったけれど彼がふわりと笑っているのが見えて、そんな表情を見たら何故だか急に泣きたくなってわたしはひとり、涙を堪えて力のない拳を握り締めていた。

教室に入って授業が始まっても、お弁当を食べていても思い出すのはあの横顔で、頭の中で木霊すのは聞いたばかりの彼の声。

どうしてこんなに思い出すんだろう、どうしてこんなに焦がれるんだろう、ただ電車で会う人なだけなのに。

どうしてこんなにも胸が苦しくなるんだろう、思い出せば胸も気持ちもいっぱいでお弁当を食べる手がぴたりと止まる。

わたしはどちらかと言えば大飯食らいだ、友達にもまだ食べるのかと呆れられるほど食べるし、そんなんだからあの日のお昼は具合でも悪いのかと心配されてしまった。

具合なんかちっとも悪くない、ただ、もう、なんか。

胸がいっぱいなだけで、胸がいっぱいだから食事が喉を通らなかっただけだ。

何の話を聞いても上の空になってしまうし、午後の授業なんて気付けばノートの端っこにハジメくんと名前を書いてしまう始末。

色んな漢字を書いたっけ、始、元、一、初。

そんな自分に気付いたときには酷く赤面したけれど、気になりだした思いは止まってくれなくて、こっそり携帯の変換で色んなハジメという漢字を調べてしまったりして。

肇もあれば基もあるんだ、なんて、歴史の授業のはずなのにわたしのノートはすっかり漢字の勉強になってしまって、だけどその日、彼の名前が頭から離れてくれることなんてなかった。



next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -