濡らさなくてもいい裾も靴もずぶ濡れで、待っている間冷えて寒かったから手もこんなに冷たくて。

うん、そうだ、思い返せばはじくんはいつだってそうだったじゃない、口では素っ気無いふりをして実は凄く優しくて。

いつも通りだ、はじくんはきっといつも通り、昔から変わらない。

違うのは、素直じゃないわたしの方だ。

喧嘩という喧嘩だったわけじゃない、わたしが勝手に傷付いたからはじくんが酷く怒っていると錯覚しただけなのかな?

だけどずっと此処で恐怖にのた打ち回っている姿を見られていたと思うと、恥ずかしさと遣る瀬無さで顔が上げられず、わたしははじくんの濡れた靴を見遣りながら小声で呟いた。



「怒ってると思ったから…電話もしなかったから、来ないと思ってた」

「俺がいつ怒っていると言った?」

「……怒ってる素振りだった、から」

「怒ってはいない、呆れていただけだ」



恐る恐る返しながらゆっくりと視線を上げれば、交わる瞬間にふいとそっぽ向かれた。

嘘吐き、そういうの、怒ってるっていうんだよ。

言えばきっと睨まれる、それから怒っていないと言っているだろうと眉間に皺を寄せ強い口調で言われるんだ。

大体ここからのパターンは解っている、だから言いたいことはあったけれど口を噤んで、それから何で?と問い掛けた。

だけど次の言葉も大体予想は付いていた、予想通り解らないのか?という答え。

解らないから何で、と問うてるのに、いつだってはじくんはこうだ。

何故解らないとか、確かにわたしは頭は良くない、人の心にも敏感ではない、だからこうしてはじくんを苛々させる、解ってる。

でも、どんなに考えてもくだらないと言われるのは心外だし、あそこでどうして呆れられるかが解らないのだ。

気付けばまた涙が頬を伝っていたのか、はじくんの指腹がわたしの頬を撫でて、それからほんのりと眼を細めてわたしを覗き込んでくる。

不覚にも心音を甲高く高鳴らせた胸にはもう恐怖は何処にもなくて、遠くでゴロゴロとまだ雷も鳴っているというのに身体の震えは止まっていた。

はじくんが傍に居るからだ、はじくんがこうして触れてくれているからだ、恐怖が去った理由を理解するのは簡単だった。



「あんたは俺が幼馴染だという理由だけであんたの面倒を診ていたと、そう思うか?」

「………」

「我侭で自己中心的、甘えたですぐ他人に頼ることしか考えない。その癖どうでもいいことばかりひとりで抱え込み、どうにもならなくなった頃に泣いて出せない答えに行き詰る。そんな面倒な女を幼馴染だという理由だけで俺が面倒を診ていたと、そう思うのか?」



言ってることは当たっている、だけどはっきりと言われ過ぎて胸の至る所がしくしくと痛み眉が潜んだ。

そこまで言い切らなくてもいいじゃない、正直問い掛けよりもそっちの方が気になる。

けれど、真剣そのものの眼差しでわたしの眼を覗き込んでくるはじめが目の前に居るから、文句のひとつすら言えやしないと口唇をきゅっと引き締めた。

1度視線を逸らして考えてはみたものの、そうじゃないの?という思いしか出てこない。

はじくんは面倒見が良くて成績も優秀でいつも先生たちにも親たちにも信頼されていて、誰がどう見ても優等生だった。

クラス長がこんなにも様になる人は居なくて、ちょっと小言が多くて厳しいけれど凄くしっかりしているからわたしはいつもはじくんの隣を安心して歩いていた。

知らないところで道に迷っても迷ったと騒ぐのはわたしだけで、たった1度しか通っていない道も戻れるように覚えているのは凄いと関心したこともあって、逆にわたしは周りを見ないから迷子の天才だとか自分でふざけて言っていたっけ。

そんなんだからお母さんが小さい頃から良くはじくんにお願いしていた、面倒診てあげてねって。

ダメなことしたら叱っていいからって、同級生なのにお兄さんみたいな感じなところもあった。

中学まで毎朝起きれないわたしを起こしに来たり、何でこんなに早く学校に行かなきゃいけないんだと内心不満に思うことも多々あったけれど、部活の試合で迎えに来てくれなかったとき凄く思ったっけ、はじくんが迎えに来てくれてたから朝慌しい思いをしないで済んだんだって。

お母さんははじくんに頼みすぎた所為であんたが何も出来ない子になった、なんてことまで言っていた。

はじくんがわたしの我侭に付き合ってくれるのも面倒を診てくれるのも勿論、義務じゃない。

だけど、半ば義務化されていたような感じだったからそういう理由なんだと思っていて、でも、違ったの?

わたしはすぐに表情に出るとはじくんが昔言っていた、だからほんの少し小首を傾げただけで溜息を吐かれて、声に出さなくてもわたしの気持ちが手に取るように解るのか、彼は顔を顰めた。



「たかがそんな理由であんたの面倒など診るわけないだろう、何故解らん?」

「………ごめんなさい」



思わず謝ってしまったのは、キッと近距離で睨み付けられたからだ。

はじくんに睨まれるのは怖い、はじくんは一番好きで大好きで、一番頼りになる人だけど一番怖い人でもある。

そんなはじくんの顔は怖いと一度視線を横に逸らして、だけどそんなに睨まなくてもいいじゃないともう一度元に戻した瞬間だった。

はじくんの背後、すぐ近くの空が恐ろしいほどに光ったと同時に酷い音が木霊して、わたしは悲鳴も上げることが出来ないまま目の前のはじくんの身体に飛びついた。

そんなわたしの勢いに中腰で屈んでいたはじくんが思い切り尻餅を着いたけれどそんなこと、構っている暇はない。

はじくんが傍に居れど怖いものは怖いと再び震え出した身体ではじくんの服を思い切り掴んで、それから胸許に顔を押し付ける。

でもはっきりと見てしまった光が眩し過ぎて、瞼をきつく閉じても恐怖も光も消えてくれなかった。

空から地上へ一直線に落ちた閃光、耳にまだ聞こえる鈍い音がわたしの安心感をあっという間に奪い去る。



「やだ!やだ見ちゃった、やだ!怖いっ!」

「ユメ、落ち着け」

「落ち着けない!怖いっ!」



だってあの光は木を真っ二つに折って煙を出させるほど怖い光だってわたしは知ってるから、別にトラウマだなんてそんな高貴なものじゃない。

だけど怖いものは怖い、あんな光、見たくもないんだとはじくんに身体を押し付けるように思い切り体重を掛けてしがみ付いた。

落ち着け、近くではないと言われたところで光った直ぐ後に音がなるのは直ぐそこではなくとも近い証拠だ、落ち着けるわけもない。

嫌だ嫌だとはじくんの胸許に顔を押し付けたまま頭を振って何度目か、拉致が開かないと判断したのか、はじくんが声に出して溜息を吐いた。

と同時に思い切り浮遊感がわたしを襲って、気付けば身体が引き剥がされて居て、



「やだ!また光るもん!見たくない!」

「ユメ、」

「お願い、はじくん!離れちゃやだ…っ」

「………っ、」



怖かった、はじくんに睨まれるよりも怒られるよりも何十倍も怖かった、だから離れないで欲しかった、せめてこの震えが止まる間だけでもいいから。

嫌だと叫ぶように声を上げたわたしには、はじくんの言葉なんてあまり耳に届いて居なかった。

それははじくんも解っていたのか、はじくんの冷たい手がわたしの頬を掴んだのは次の瞬間。

ぐい、と寄せられた衝動にかたく瞑った眼を思わず見開いて、でも目の前にははじくんの顔しか見えなくて何がどうなったのか理解出来なかった。

すぐに解ったのは声が出せないということ、ううん、声は出そうと思えば出せるけれど言葉が出せない。

口唇が塞がれていて、何がどうなっているのかと離れようとしても首の後ろと後頭部を押さえ付けられているから身動きが取れない。

柔らかくて少し暖かい感触が口唇をしっかりと塞いでいる、それだけは解って、それだけが解ったと同時にゆっくりとその柔らかみは消えて行った。



「………は、じ、」

「…落ち着け、ユメ」



ほんの眼と鼻の先にははじくんの整った顔、こんな雨の中でもふわふわと風に舞って揺れる髪がわたしの頬を擽って、何度瞬きをしてもこの現状は変わらなかった。

ジッと逸らされることもなくかち合う視線、だけど次の言葉が出てこない。

まだ少し震える手が振動で伝わるのか、はじくんはもう一度ゆっくりとわたしを引き寄せると、今度はもう少しだけ角度を変えて口唇を重ねてきた。

押し付けるだけのキス、でも柔らかい感触に戸惑っている暇も眼を瞑る暇もなくすぐにまた離されて、



「解ったか?」

「………え?」

「俺が、あんたの傍に居た理由だ」



眼と鼻の先、息遣いまで感じるほどの近距離で問われる声は小さいくせによく耳に届く。

こんな近距離で声と一緒に想いまで届けられたら、言葉を聞かずとも頷くしかないじゃないかと恥ずかしさに一気に頬が熱くなって。

恐怖はなくなったはずが今度は別の意味で震え出す身体、だけど歪みそうになる顔を必死に堪えるだけで精一杯のわたしは、何とか伝わったと言うことだけは教えようと小刻みに何度も頷づいた。

そんなわたしを見遣りながら口角をゆるりと上げたはじくんは言った、お前しか最初から見て居ないのに嫉妬などくだらん、と。

ユメが俺を好いているなど、そんなことは何年も前から知っていた、と。

それならそうとくだらないの前の件もあの時言ってくれればそれで良かったじゃない、そうすれば今日こんなにも恐ろしい思いをすることもなかったのに。

だけど目の前で穏やかに笑みを浮かべるはじくんの顔を見ていると、今日がなかったらきっと、わたしははじくんの大切さとかまた解らずに我侭し放題の自分勝手なわたしのままで居て、近い未来、過去を叱咤することになっていたかもしれないと気付いてそっと眼を伏せた。





目隠し代わりのキス





怖いともう一度呟けば、今度は身体を抱きしめながら口付けてくれて、こうしていれば俺しか見えまいと外界を遮断してくれるはじくん。

遠くで何度も耳を突くような恐ろしい音が聞こえるような気がするけれど、今は甘い腕の中で、自分の煩い心音しか聞こえない。






end
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