本当ならば今日だってそうしたい、家にはどうせ誰も居ないし大雨が降ろうが雪が降ろうが共働きの両親は絶対に夕食時じゃなければ帰って来ないし、そんな中ひとりで家の中に居るだなんて耐えられない。

暗い家の中の自分の部屋でひとり震えながら布団に包まる自分の姿を想像すれば思わず身体に力が入る、きゅっときつく瞑った瞼はぶるぶると震えていた。

と同時に遠くでゴロゴロと空が唸る音が聞こえて、喉を鳴らしながら息を吸い込んだ身体は益々硬直の一途を辿る。

ダメだ、帰れない、こんな中ひとりじゃ帰れないよ。

こんなことならば雨が降り出した頃に早退すれば良かった、あんなに何時間も前から嫌な予感を感じていたのに行動に移せないだなんてわたしの馬鹿。

だけどはじくんが迎えに来てくれると信じていて、信じていたわたしは来てくれない今の現実にも絶望する気持ちを隠せなかった。

脚が竦んで前に出ない、でもこのままじゃ先生に見つかって怒られるだけ、早く帰らなきゃ、どうせはじくんは迎えに来てくれないんだから、何を期待して待っているんだろう。

ううん、期待しているわけじゃない、ほんの少しはしていたけれど、思い返せばはじくんが来てくれないことなんて解ってたじゃない。

はじくんが来てくれるのはわたしが電話したときだけ、電話して泣きついたときだけだ。

わたしははじくんに今日、電話した?してないよね、今日だけじゃない、もうずっと、会ってもいなければはじくんがあの日怒った意味すら解ってない。

そんな状態で電話など出来ないし、だけどわたしはこの脚を踏み出せないしどうすればいいの、全然解らない。

雷くらいなんだって、大雨くらいなんだって言えればいいのに、言えないのは怖いことを理由にいつだってはじくんに甘えていたからだ。

そういえば雨に濡れるのは嫌だけど、一緒の傘に入って2人で濡れる分には一向に構わなかったっけ。

はじくんなんてわたしが濡れないように傘にほとんど入れてないからいつだってびしょ濡れで、そんなはじくんに傘を返すからわたしも濡れて、いつかはじくんのおばさんに2人でひとつの傘に入らなきゃいけないの?なんて冷静に言われたこともあった。

それでも確かに、なんて納得しながらも次も同じことをして、だから毎回大雨の日はびしょびしょだった。

同じ濡れるでも今日はひとり、きっとさくさくと歩けば濡れたりなんかしない。

濡れたってきっと下着までびしょびしょになることなんてない、ふたりで濡れて平気ならひとりでも平気、怖くない。

そう思って一歩踏み出そうとしても、遠くでわたしを嘲笑うかのように鳴る雷の音がわたしのほんの一握りの勇気すら摘み取って、昇降口の入り口を越えさせてくれなかった。

雷の鳴る感覚は次第に短くなって来て、わたしの身体は徐々にそれを避けるかのように腰を引く。

やがて何処かに落ちたような音が木霊すと同時、わたしはついに悲鳴を上げてそのまましゃがみ込んで耳を塞いだ。

擬音にすればピシャンなんていう間抜けな音だけれど実際は酷く脳裏に響く鈍い音、破壊力も然ることながら一瞬だけ目に映った光が瞼を閉じても消えてくれなくて、わたしの身体は意思とは関係なく震え出す。



「…っだ、やだやだやだ!怖い怖い怖いっ!はじくん!はじくんっ!」



怖いと声に出せば我慢出来ない震えが一瞬にして背中を這った、それから口にするのは脳裏に浮かんだ拙い感情だけ。

人間、どんな感情だろうと行き過ぎるとオーバーヒートして錯乱状態になることがあると何かで聞いた気がする、その最たるものが怒りや恐怖だと。

怖いものはいっぱいある、ゴキブリだって怖いし暗闇の中肝試しなんて脚が竦んじゃうし、人参を端に寄せたときのお母さんだって死ぬほど怖い。

だけどわたしはいつだってこんな錯乱しそうなほどの恐怖を味わったことはなかった、だって今まではじくんが居たんだもん。

すぐ近くに、呼んだら必ず来てくれる人が、何よりもの安定剤が隣に居てくれたから落ち着いていられたのだと、雷から身を隠すよう昇降口の端まで逃げ込んでひとり味わったことのない恐怖を感じながら思った。

はじくん、はじくん、はじくん、何度も呼べば届く気がするとかそんなロマンティックな思考は今、わたしにはない。

ただこの恐怖から逃れたくて、自分を落ち着かせるためにはじくんの名前を口ずさむことが今、最良の自分を落ち着かせる方法だと本能がそうしているだけだ。

出来れば気絶したい、気絶して時間が飛べばいい、ずっとこの場に倒れて風邪をひいたっていいからこの恐ろしい時間をどうか飛ばして欲しい。

そう願っても気絶なんてしたことないし、元より気絶出来るほどの落雷などなくて、わたしは蛇の生殺しのような恐怖の中、耳を押さえて端に蹲っていた。

腰を下ろしたところは泥や雨水で濡れてお世辞にも綺麗な場所じゃない、普段だったらそんなところ、しゃがみ込みたくもないけれど今はそんな泥など気にもならない。

スカートが汚れるからジャージを敷こうかなんて冷静さもなければ、恐怖のあまりに耳を塞いで身体を丸めたまま動けなくなってしまっていた。

大きな落雷の後、ほんの少しだけ雨が弱まったけれどこの静けさは、今のわたしには大雨が打ち付けるそれよりも何倍も怖いものだった。

こういうとき、油断しているといつだって2発目の落雷がある、しかも2発目はいつだって身が縮込まってしまうほど大きな音をたてるんだ。

だけど今、雨は少し弱くなっている、どうせ20分歩くんだから途中でまた強くなったりするだろう、その前にさっさとタクシーでも捕まえてしまえばいい。

このチャンスを逃したらきっと、もっと雨が強くなって雷が鳴り響いて、わたしはどうにも動けなくなる。

今だ、今しかない、ひとりでも帰れなければ、わたしははじくんが居なくたってひとりで帰れるようにならなければいけないんだ。

高校生にもなって雷が怖くて帰れないだなんて何を甘えたことを言っているの、濡れてもいいじゃない、こんなところで震えて泣きべそかいてるなんてはじくんが知ったら、きっとこの間以上に呆れられる。

意を決して生唾をひとつ飲み込むと震えて力の入らない手に渇を入れるために横の下足箱を思い切り拳で殴ってみた、だけど力が入らないのか恐怖が勝って感じないのか痛みはなくて。

それでも気持ちだけでも違うと腕を前に着いて、重く床にこびり付いてしまった腰をゆっくりと上げてみた、だけど、



「………っ、んで…っ、動いてよ…」



抜けた腰は上がったというのに、恐怖で竦んでしまった脚が震える一方で全く力が入らず、四つん這いのまま小さく悲鳴を上げた。

身体を起こしてもう1度座り直すと、動かない臆病な脚を動けと念じながら力の限り叩いて。

今度は痛みを感じることが出来た、だけど痛みを感じたのはさっき下足箱を殴った手の甲の方。

どうやら自分で思っていた以上に思い切り殴ってしまったようで痺れていたそこは、痺れが取れ始めた今、要らないほどに痛みを伝えだし、動かす度にわたしの顔を歪ませた。

努力すれば努力するほど悪循環にしかならない現状に涙が出て来そう、こんなことならばいっそのことはじくんに電話をした方がよっぽど早いことなのではないかなんて思ったりもした、けれど。

こんな状況だからこそ、またくだらないなんて言われたら今度こそ心が折れてしまいそうだと、わたしは思い出したあの日の声に涙腺を緩ませて視線を落とした。

でも神様は凄く意地悪だ、そんなしんみりとなんかさせてやらん、そう言わんばかりに恐れていた雷を酷い音で地上に落っことして。

再び上がった悲鳴は腹の底からの声だった、だけどあまりの恐怖に声が擦れて響きもしない。

それでも悲鳴が上がれば自分がどれほど恐怖しているか理解するのは早く、こんなことで泣く馬鹿がどこの世界に居るのだろうかと自分自身に呆れながら、溢れる涙を拭うこともなく放心した。

昇降口の戸をバックに、目に映るのは下足箱と階段。

少し眼球を動かせば右手に廊下が映るけれど、たかが眼球を動かす力もないほど身体は脱力していた。

瞬きもしていないというのに頬を冷たさが伝う、激しい運動をしたわけでもないのに肩で息をしていて、恐怖に心を埋め尽くされてしまい自分が何故こんなところで泣いているのか、そんなことすら解らなくなってきていた。

どこかで酷く冷静な自分が何をやっているのと冷たくあしらう、だけどどんなに冷たくあしらわれようとも落ち着かない身体はぴくりとも動けなくて、疲れてもいないのにただ荒い呼吸を繰り返すだけだった。

近場でもう一度耳を突くような雷の音が聞こえる、それと同時に再び雨が強くなっていく音がわたしの冷静な部分をも濁していく。

自分でどうにかしなければいけないのにどうにも出来ない自分が此処に居て、いつまで此処で燻っていればいいのかと何度も自問自答してみるけれど、どうにも取り払えない恐怖が此処にあると思い返し鼻を啜り上げることしか出来ないで居た。



「は、じ…くん、はじくん…っ」



震えて出せそうになかった声、それでも捻り出せば擦れた声が昇降口に響いて、雨音に消される余韻が自分で聞いても寂しいと思った。

助けなんか呼んで居ない、だから来るわけないのに、解っているのに返事がないことが寂しいだなんて自分勝手だ。

ひとりで帰れるようにならなきゃダメだと思いながら、まだ何処かでもっと早くに呼んでも怒られないよう仲直りしておけば良かっただなんて思ってる。

落ち着いて、自分のことばかり考えていないでもっとちゃんとはじくんの気持ちも考えなよ、わたし。

はじくんはわたしの使いっ走りでも召使でも何でもないんだよ、何いつもはじくんにばかり甘えて頼ってるの。

勝手なことばかりして終いには怒らせて、その怒らせた理由だって解らないなんて、自分のことばかり考えてた証拠だ。

しっかりして、はじくんは呼んでも来てくれない、自分で何とかしなきゃいけないの。

どうしてもダメなら職員室に行って、落雷が過ぎるまで待たせて貰ってもいいじゃない。

確か今日は永倉先生が宿直だって言ってた、そうしよう、ひとりがダメならまずは此処から離れればいい。

はじくんに頼っちゃダメなんだ、そう思って震える手で臀部の横に手を着き、ゆっくりとその場から腰を上げようとした、そのとき、



「そんなに呼ぶのならば何故電話をしてこない」



一瞬、空耳かと思った、激しい雨の音であまりよく聞こえなかった所為もあるけれど、此処ではじくんの声が聞こえるはずがないと思ったから。

だけど瞬きをして数度、今度はキュッと地面と靴が擦れる音が耳に届いて目が見開いた。

それから砂利を踏む音と昇降口のサッシを踏む音、次にキシっと鳴ったのは屈んだ際に骨が鳴ったのか、衣擦れの音と共に耳に届いて。



「高校生にもなって雷で泣く奴があるか」



見っとも無いだろう、そう言われるのとわたしが声のする方へ振り向いたのは同時だった。

声を上げる前に伸ばされたのは手、瞼に沿って涙を拭い取るその体温は冷たくて温かみなんて何処にもない。

何処にもないけれど目の前に居るはじくんが夢でも幻でもないことをその感触で教えてくれて、折角拭ってくれた涙がまた瞼から零れ落ちそうだった。



「呼んで、ないよ…何で居るの?」

「ならばさっき呼んでいたのはなんだ?」

「電話してない…ってこと、なんだけど」

「今回は貰っていないが、呼んでいただろう?」

「…………はじくん、超能力とか使えたっけ?」

「…違う、いつも、だ」



いつもこんな日は必ず呼び付けていただろう、そう零すとはじくんは小さく溜息を吐いて、それから呆れたように首を竦め気持ち少し傾けた。

確かにいつも呼んでいたし、はじくんが来てくれないと、怖いとずっと此処でも呼んでいた。

だけどはじくんはこの間のことで怒っていて、それは勘違いではないはずだ。

だってわたしが部屋を出るときにいつも止めに来る人が腰も上げず視線も寄越さず、課題が終わったところで家にも来てくれなかった。

昔、小さな頃に何度か喧嘩したけれど、いつだって頭に来ているときは同じことをしていたし、そういうときは絶対に口を利いてくれないからいつもわたしが理由を探してごめんなさいをしに行っていたもの、勘違いじゃない。

だけどわたしはこの間はじくんが怒った理由が解らなくて、理由が解らないから謝りに行くことが出来なかった。

その前にわたしだって好きだって言ったのに知ってるとかよく解らない返答をされた挙句、くだらないと言われて傷ついていたんだ。

あれはわたしだけが悪いわけじゃない、なんて、思ったらやっぱり自分勝手だろうか。

ダメだ、目の前にはじくんが居ると、ひとりで何でも出来なきゃと言い聞かせた頑なな気持ちが結び目を解くように簡単に緩んでしまう。



「ひ、ひとりで、帰れるもん…」

「……15分ほど前からそこで見ていたが、言葉のような気配は見当たらなかったな」

「……な、なんで……」

「電車が停まるから授業は終了だと、お前のところもそうだろう?どうせ帰路にも着けず燻っていると思って来ただけだ」



言い終われば同時に溜息を吐いて、そんな素っ気無さ過ぎるはじくんの態度が今日はやけに気になって、どうせって何よと擦れる声で零した。

だけどそんなクールぶっているはじくんの足許を見て、ほんの少しだけそれがはじくんの強がりだとわたしは気付いたの。

はじくんの高校は少し離れたところにあるため電車通学で、駅に高校の名前が付くほど駅から学校は近いところにある。

学園祭に遊びに行ったことがあるけれど、本当に近くて電車に乗り遅れない限り100パーセント遅刻なんかしないところだった。

わたしは学校まで徒歩でも行ける距離だから利用しないけれど、家から最寄り駅までも徒歩3分ととても近い。

商店街を通って帰ればアーケードを潜るし、そんまま帰ればはじくんはほとんど濡れないで帰ることが出来る。

それなのに、怒っているはずなのに、1度手前の駅で降りて此処までわたしを迎えに来てくれたんだ。





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