鼻緒が切れた、ただそれだけなのに無性に泣きたくなったのは、今朝起きてから今この瞬間までの出来事が吉ではなかったからだ。

厄日だろうかと溜息を吐き出したくなるほど、目を覚ましてから嫌なことが身の回りで起こっている。

お膳をひっくり返したり普段ならば絶対に触らないだろう熱された釜に触って火傷を負ったり、落とした野菜を取ろうと屈んだすぐ真横に包丁が落ちてきたときは流石に冷や汗を掻いたもの。

引っ張り出したお気に入りの若草色の着物は虫が食っているし、木目簪は髪を回して差し込もうとした瞬間、折れる。

悪いことは立て続けに起こるとはよく聞くけれど、それもいつまでも続くわけじゃない。

そう解っていながらも、出先で切れた鼻緒に死刑宣告をされた気がしてわたしはひとり、鼻の奥がつんと通るのを感じてゆっくりと目を瞑った。

だけど泣いたところで通りを抜けきってしまったこんな場所じゃ誰も助けてはくれないし、いい年頃の娘が鼻緒が切れたくらいで涙を滲ませるなどみっともない。

普段は願わずとも誰かどうかに会うというのに、こうして本当に困っているときに誰にも会わないのが不思議なところだ。

それどころか辺りを見回しても夕間暮れの橙色した景色に映るのは自分の影しかなく、誰かが助けてくれそうもないと、脚を引き摺るように道の端へと身体を寄せた。

ここから家路までどれほど掛かるだろうか、曲がり角もない道の向こう側を見遣れば自然と目が細まる。

元々遣いの遣いという全く関係のない用事でこんな外れまで来てしまったけれど、ここから鼻緒を切らしたまま半刻近く歩くなど無理があると、片足をあげ下駄に手を掛けた瞬間だった。

ぐらりと目の前が揺れたのは体勢を崩した所為、だけど高がそれくらいのことでよろめくなど思っても居なかったわたしは慌てたまま何度も身体をばたつかせて、



「…ぃ、ひゃ…っ」



とんとんと、体勢を立て直そうとした努力も空しくつんのめり、そのまま脇の段差に脚を取られ緩やかな草々が生える傾斜にゆっくりと滑り落ちた。

痛みはないにしろ尻餅を付いた所為で鈍い振動が身体に響き、また無駄に落ちまいと抵抗した所為で膝まで捲れ上がった着物の何とみっともないことか。

露になった自らの脚を眺めながら、早く裾を直さなければと気持ちは逸る。

だけど、度重なる不運に肩が竦んでしまい、そのまま膝を抱えてしまいたくなる衝動の方が大きく、それを抑えるため先に、深く溜息を吐き出し手許の名も知らない草を握り締めた。

と、同時だった、すぐ頭上で砂利を踏む音が聞こえたのは。

それから微かな呼吸音が耳に届き、誰かが滑り落ちた無様なわたしを見下ろしている、そう理解した刹那、



「あんたは何をしている?」

「…………」

「随分な格好だな、」



聞き覚えのある声だと思った、はっきりと、だけど緩やかなはずなのに何処か冷やかに聞こえる声。

わたしはこの声を知っている、思うと同時に恐る恐る声のする方へと視線を向ければ、そこに居たのはわたしが以前女中に入っていた八木家を屯所に構えている新選組の人だった。

確か、名を斎藤一さんと言った、編成された隊の隊長であるとご主人に聞いた気がするけれど、彼らの内情までは特に知っているわけではない。

けれど、藩主預かりの武士に八木家の女中如きが無礼を働くわけにもいかないと、用があれば話はするものの、その御名など口にしたこともなかったわたしは酷く戸惑い、ただわたしを見下ろすその姿を見上げていた。

とは言ってもそれは一月ほど前の話だ、現在わたしは八木家の女中をしているわけではない。

ご主人の紹介に合い、呉服屋の手伝いに入ってからというもの新選組の方々とは係わり合いがなく、巡察中に通りで会えばほんの少しお話する程度だ。

よく話し掛けてくださるのは永倉さん、それから原田さん。

視線が合えば手を振ってくださるのは藤堂さん、挨拶の変わりだと言わんばかりに目を細め、口角を上げるのは沖田さんだった。

斎藤さんと話をしたことがないと言えば嘘になる、実際、屯所となった八木邸に使いで脚を運んだ際一番頼まれものを受けてくれるのはこの方であったし、だけど本当にそれだけなのだ。

彼が巡察中、出会ったことは何故か一度としてなかったし、用事以外で話し掛けて来ることもなかったし、だからこそどう対応していいものかと内心小首を傾げる。

だけど小首を傾げると同時、随分な格好だと言われた言葉を思い返して視線を戻したわたしは、あられもない自分の足許を視界に映して再び泣き出しそうな気持ちが込み上がった。

瞬時に動いたのは手、捲れ上がっている裾をとりあえずと戻してみるけれど後の祭り。

恥ずかしさについ、と顔を俯かせると同時、耳許まで熱が篭ったのは極自然の成り行きであると、わたしはきゅっと口唇を噤んだ。

最悪だ、彼の口ぶりでは滑り落ちた様もしっかり見られていただろうに、その上こんなはしたない姿を見せてしまっただなんて鼻緒が切れるだけのことはある。

わたしは普段、せめてご主人に恥をかかせぬよう少しでも品があるよう努めていたつもりだ。

勿論、そんなことをしたところで元々品など大して持ち合わせていないのだから無駄なのだろうけれど、それでもしないよりはましだと振舞っていたつもりだ。

それをもう八木家の者ではないとはいえ、深く関わりもあるだろうこの方に見られるとは。

ううん、そんなことよりも助けが欲しいと願ったとはいえ、よりにもよってこんな醜態を見られてしまったのは恥ずかしいと、わたしは俯いた顔を上げることが出来ず望まない沈黙に瞼を閉じた。

こんな居た堪れない気持ちになるのならば、いっそ気づかぬふりをして通り過ぎてくれればよかったのにと逆恨みをしてしまいたくなる。

だけど見られてしまったものはどうにもならないし、声を掛けられてしまったからには沈黙していても仕方がないと奥歯を噛み締める。

でも言葉が出て来ない、こんなところに座り込んだまま沈黙を貫いたところで斎藤さんが困るだろうし、けれど滑り落ちましたと口にするのも恥ずかしい。

まず顔すらも今は上げられないと首を竦め直していると、再び砂利を踏む音が耳を掠めた、それから、



「鼻緒が切れているな」

「…………」

「貸してみろ」



緩やかな草の傾斜を草履を滑らせる音が聞こえた、それはわたしのすぐ脇で止まると衣擦れの音と共に低く短い声が降る。

そんな声に反応し、徐に瞼を持ち上げ気持ち少し顔を上げると同時、彼がわたしに向かって手を差し伸べたのが見えた。

わたしの左手のすぐ横には落ちる際に脚から剥ぎ取った下駄が転がっていて、その鼻緒は履いていたときよりも大きく引き千切れているように見える。

千切れた口は空を向いていて、見遣れば見遣るほど直しようがないと解るそれ。

だけど一言も口にしないわたしを怪訝に思うでもなく斎藤さんは、それを寄越せと差し出した手を引くわけでもなく屈み込んでいて、仕方なくわたしは視線も合わせられないまま下駄を手に取り彼に手渡した。

下駄を受け取ると慣れた手つきで紐解いて、それから何をするのかと思えば迷うことなく自らの髪を結っていた結紐を解いて見せる。

ふわりと柔らかい髪が肩に落ちる気配に思わず上がらなかった顔を上げたのは、その一連の動作が酷く心を擽ったからだ。

しっかりと一文字に結んだ口許と通った鼻筋、伏せがちの眼に男の人にしてみれば若干白いその肌、長い髪。

結ばれているのが当たり前のそれが綺麗に解かれ柔らかく宙を舞った、ただそれだけなのに胸の位置も解らぬほど奥が高鳴ったのは初めて見る姿だったからだろうか。



「……斎藤、さ…」

「生憎、手拭を持ち合わせておらん。が、無いよりはいいだろう」

「…………ですが、」

「松の呉服屋に居ると聞いた、下駄無くして歩けまい」



きゅ、っとしっかりと結ばれた彼の結紐は鼻緒にしては心許無い、酷く長いし正直不恰好だ、だけど。

腰の刀でせめてと余計な部分を切り落とそうとする彼の手を思わず止めてしまったのは、わたしだった。

何故だろう、不恰好なのに。

何故だろう、勿体無いと思ってしまったのは。

何故だろう、再びかち合った眼が恥ずかしいと逸らしてしまったのは。

だけどそんな恥ずかしいという気持ちはさっきのような醜態を晒してしまったというそれではなくて、心音が煩い所為でうまく頭が回らない。




「ありがとう、ございます…でも、このままで…」

「…このままでは歩き難いだろう、また脚を掛け、」

「いえ、」



このままが、このままが、いいんです。

そう言いたくて、そう伝えたくて見上げた先のお顔がとても近く、さっきの何倍も耳を熱くさせたわたしは、きっと家路に着いたらこの紐を解くだろうと答えを見つけた。

返すわけではない、鼻緒の変わりにしてしまったこんな結紐を返せるわけはないのだけど、それでも頂けるのならばこのままがいいと。

目の前で意図が解らないと瞬きを繰り返している斎藤さんにこれ以上返せる言葉も見つからず、ひとり再び沈黙に俯いた。




















本当はわたし、手拭持ってるんです。

だけど今更言い出せるわけもないと、代わりに簪を一本引き抜いたら頬を染められ要らぬと言われた。

知らないばかりのその顔をもっと知りたいと思ったわたしは、きっとあなたに新しい結紐を渡しに行くことでしょう。

悪いことは立て続けに起こるとは聞くけれど、こうして終わるのならば悪くもないと、わたしは今宵、紐解きながら口許を緩ませる。






end
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