上司に頼まれた書類を纏め終わり、やっと自分の仕事に戻れると思ったらそれを届けてくれなんて言われたのがつい3分ほど前のこと。 こっちだって仕事が山積みなのよと隠れて舌打ちするもそれを大っぴらに出せるわけもなく、渋々近くにあった小さい段ボールに纏めた書類を入れて階段を2段飛ばしで駆けて行く。 お昼まであと1時間半、朝ご飯を食べない所為で一番お腹が空くこの時間は身体を動かすのが酷く億劫だ。 だけど、それは朝ご飯を食べないわたしが悪いのだと充分に解っているから、文句のひとつも言えやしない。 学生時代から起き抜けすぐに何かを口に出来ない性分で、それは今でも変わらない。 大体お腹が減る時間も解っているのだからそれに合わせて少し早めに起床出来ればいいのだけど、ご飯のために睡眠を削れるほどわたしは出来た人間ではなかった。 電車を降りて会社までの道のりには数件コンビニもあるし、途中で何か買えばそれで用は足りる。 けれどわたしが出勤する時間帯なんて何処のコンビニのレジも長蛇の列を作っていて、そんなものにのんびり並んでしまえばタイムカードが赤くなるのは眼に見えていたため、いつだって横目で見遣りながら何事もないふりをして脚を早めていた。 空腹を満たすために珈琲を飲めばトイレが近くなるし、だけど何回も席を立つのも面倒臭い。 その度についでと煙草を咥えれば、上司に何を苛々していると見当違いの視線を投げ掛けられてそれもまた酷く面倒臭かった。 食べる?と同僚から差し出される飴は有り難いけれど、甘い物が元々得意じゃないわたしとしては空腹時にそれを口に放り込むのも少し抵抗があり受け取ることも少なくて、そんなんだからいつしか飴玉のひとつすらも回ってこなくなったりして。 だけどガムなら回してよ、なんて思うわたしは凄く我侭なのだろう。 帰宅途中で夕飯を買ったついでにそんなおやつも買えば全て解決することなのに、その時はその時欲しい物しか眼に入らない。 要領が悪いのは当の昔から知っていた、だけどいくら直そうと試みても行動力のないわたしはいつだって同じような思考の下生きている。 中学生くらいの頃は10年後の自分はさぞや大人になっているのだろうと思って居たけれど、10年経って蓋を開けてみれば全く変わらない自分が此処に居て。 成長って何だろう、あの頃から決めたことを三日坊主で終わらせることは変わらないし特に価値観も変わっていない。 強いて言えばほんの少し恋愛を経験して、傷付いたり傷付けたり、友達と喧嘩をしたり、そんなことをしていただけだ。 何も変わらない日常が退屈なわけじゃないけれど、わたしはこうやって無難な日々をだらだらと刺激のひとつも求めず過ごしていくのだろうか。 何か、小さくてもいい、何かきっかけがあれば変わるのかもしれないけれど、しなくてもいいことは出来る限りしたくないし、面倒なことは嫌いだ。 面倒なことを楽しみに変えられる何かがあれば、女子力もテンションも低いわたしだって少しは可愛げが出てくるんじゃないだろうか。 そう思うだけはやっぱり一丁前で、だけどそんな先も見え難いビジョンを浮かべ考えることすらも億劫だと、わたしは息を切らせながら最後の2段を大股で駆け上がった。 「失礼します、経理の佐藤ですが…」 開けっ放しのドアからひょっこりと顔を出し声を掛ければ、内線で連絡が通っていたのか担当らしき大柄の男の人が振り返って笑顔をくれた。 総務は一番人が多い上にうちの会社は担当部署によって部屋が全然違うものだから正直、隔離された経理のわたしなんかが脚を踏み入れるには少し勇気が居る。 活気も違うし知らない人だらけ、下手をすれば顔を見たこともない人も存在するほどで、女だらけの中黙々と作業するわたしにとってそこは別世界のようだった。 わざわざ悪ぃな、そう頭を掻きながらわたしに近づいて荷物を受け取るべく手を差し出す栗毛のこの人は顔くらいは知っている、けれど名前までは解らない。 見渡す中、わたしが名前と顔を知っているのは課長の山南さんと主任の土方さんくらいだ。 あともうひとり、交流会でわたしが靴にお酒を引っ掛けてしまった原田さんくらい。 そう辺りを見渡してみたけれど、目当ての彼は眼に映ることもなく、わたしはとりあえず用事を済ませるために目の前の彼に段ボールごと差し出した。 ご苦労さん、確かに、と無駄に声を張り上げて笑う彼を見遣って一度頭を下げればもう用済み。 此処まで駆け上がってきてこれで終わりというのも釈然とはしないけれど、終わってしまったものは仕方がないと一歩片脚を下げると同時、そういえばという目の前の彼の声でわたしは再び顔を上げて小首を傾げた。 何かと思えばうちの主任に先週部署ごとに行った社員旅行のお土産を渡して欲しいなんてついでのように言われ、だけど断る術もないので解りましたと小さく言葉を吐き出してみる。 そういえば此処は何処に行ったんだろう、経理は女だらけの中におっさんが3人なものだから無難に温泉旅行へ行ったけれど部署によっては行き先が全然違う。 過ぎてしまったことだからさして興味はないけれどお土産はお菓子系の食べ物か何かだろう、甘いものじゃなければ今限界チックである空腹を満たせるかもしれない。 そんな自分勝手な期待に少しだけ胸を弾ませてドアの横に立ち尽くしていれば、忙しく出入りをする総務の人たちが通り過ぎ際にわたしに視線を向けて来てそれが痛かった。 向けられる視線がそんなところに突っ立って居られたら邪魔だ、と言われているようで気持ち少し気が引ける。 じゃあ何処で待っていればいいのよ、なんて内心だからと文句を吐き出しながら、一歩二歩、三歩と邪魔にならないよう壁際に沿って真横にずれて行けば、 「進む方向見ねぇと、危ねぇぞ」 とんっと肩にぶつかった何か、同時に頭上から聞こえた囁きのような柔らかい声にわたしは思わず身体を硬直させ目を見開いた。 ゆっくりと声のする方へと視線を向ければ最初に眼に入るのは赤い髪、それからゆるりと上がった口許が見えて、整った綺麗な顔が覗き込んでいるのが映ってわたしは小さく息を呑んだ。 「は、原田さん、」 「珍しいな、お前が此処に居るなんてのは」 片手には珈琲カップ、もう片手は真上に上げ扉の枠に引っ掛けて彼は佇んでいた。 居ないと思えば優雅に休憩だろうか、活気があるはずの部屋の中なのに給湯室をバックに珈琲を啜るこの空間は、何処かゆったりとした時間が流れているようなそんな雰囲気を作っている。 慌てて彼の方へと振り向いて、お疲れ様ですと声を零せば、まだ疲れちゃいねぇよなんて笑い声が返って来て、確かに出勤1時間半程度でお疲れ様はないかと内心舌を出してみたり。 だけど原田さんというこの人は、わたしにとって緊張するに値する人なのだから仕方がない。 特別な意味はそこにないつもりなのだけど、原田さんはお世辞抜きに格好いいし凄く女子社員にも人気があった。 勿論経理にも受付にも秘書課にもファンは居て、人数の多いマンモス会社の我が社でも1位、2位を争うほどのモテ男と言っても過言ではない。 そんな人に出会い頭酒をぶっ掛けるという暴挙をやらかしてしまったお陰か、こうして会えば話し掛けてくれるようにはなったけれど、ぶっちゃけそれ以上は何も望んでいない。 望んでいないというよりも望めないというのが正しいかもしれなくて、烏滸がましいというか不相応というか、ううん、目の保養が出来るだけでわたしには充分なんじゃないかと、そう思うわけだ。 緊張するけれど、一目見るだけでも駆け上がって来た甲斐があったと言うもの。 わたしは自然と零れそうになる笑みを気持ち少し隠してはにかむと同時、大分背の高い彼の視線が交わるようにと少しだけ背伸びをしてその囁くような声に耳を傾けた。 「何してんだ?早く戻んねぇと、伊東さんの小言が待ってるんじゃねぇか?」 「あ、いえ…旅行のお土産を、と言われたので」 「ああ、先週のか……それだったらこっちにあった気がするんだがなぁ……誰に言われたんだ?」 言いながら、給湯室の奥へと顔を向ける原田さん、その視線を追って遠慮がちに給湯室を覗き込めば、確かに大きな紙袋がそこにある。 確認すると同時にゆっくりと視線を外し、あの人ですけど、と手を翳せば彼から小さく漏らされる溜息。 あいつ今朝の話聞いてなかったのかよ、なんて苦笑いを浮かべながらひとり呟くと、土産は全部こっちに纏めて置いてあるとわたしに給湯室へ入るよう促した。 next |