それは何気なしに振り上げるようバッグを肩に掛けた瞬間だった。



「…っで…ッ!」



何かがバッグに当たった振動、それと同時に低い濁音交じりの声が聞こえて青に変わったはずの信号を無視してわたしは反射的に振り返った。

今日のバッグの中身は少し重い、フランス語のテストがあったから辞書という鉛が2冊入ってる。

普段からわたしのバッグは人のそれよりかなり重い、荷物が多いのと余計なものが沢山入っているので普段はお気に入りのリュックに手提げ風のミニバッグなんか持って歩いてる。

そのお気に入りのリュックがあまりの重さに耐えかねて白旗を振って来たのがつい先日。

鉛を持って行かなければならないのに金具の部分がバッキリと割れてしまって半泣きになったあの瞬間は映像としてもはっきり思い出せる。

仕方なく、リュックを買う前まで使用していた大きめのショルダーを引っ張り出して来たんだけど、これがまた斜めに掛けられないものだから重くて重くて仕方がない。

だから腕の力だけで持ち上げるのはしんどいと、梃子の原理なんか利用して少し大振りに持ち上げたのは自分でも解ってたし、だけどそれがこんな災いを招くなんて一体誰が予想しただろうか。

振り向いた先には顎を手で押さえたまま眉間に皺を寄せ、自分でも一体何が起こったのか解らないといった表情のまま前屈みで視線を宙に泳がせている男の人がいた、恐らく同年代くらい。

スキニーまでは細くないけれど細身のデニムに白いインナー、黒いすっきりとしたミタリージャケットを羽織って首に色違いのストールを巻いている彼はどう見積もっても大学生な雰囲気だ。

うん、っていうかそんな解析はどうでもいい、兎に角振り向いた先にはその人が居て、わたしのバッグには何かが勢い良く当たってしまって、そしてその彼は顎を押さえている。

よくよく見遣れば彼の靴紐が片方解けているし間違いない、わたしの振り上げた鉛入りのバッグが靴紐を直そうと屈んだ彼の顎に直撃したんだ。

そう思ったと同時に背中を走ったのはこの寒空の下で手を悴んでいる冷たさ以上の悪寒、やっちまったと顔を引き攣らせてみるもやらかしてしまった失敗は戻らない。



「大丈夫?一くん?面白い声がしたけど」

「…問題、ない…」

「…あれ?血、出てない?」

「…………」



タイミングを一歩でも失うと人は謝罪どころか声を掛けることすら出来ないものかと、地面に根を生やしてしまった足を恨んだ。

隣に居ただろう彼の友人は本当に心配しているのだろうか、ニヤニヤとした顔をしたまま未だ前屈みになったまま眉間に皺を寄せている彼の顔を覗き込んでは笑い声を上げている。

血が出ていると言われて押さえていた左手をそっと退けて確認する彼の手のひらはわたしからは見えないが、薄っすらと滲んだ赤い色が彼の顎に付着していた。

は、早く謝らなければ、いや、謝っただけじゃすまないかも。

根を生やしてしまった足を思い切って一歩前に出して声を上げようとした瞬間、今度は歩行者信号の間抜けなメロディーがそれを遮ってまたわたしからタイミングを奪い取った。

呑み込んでしまった言葉はわたしの喉で勢い良く粘膜とぶつかって咳をしたい衝動に駆られるけれど今はそれどころじゃない。

だけど苦しいと一度咳払いをすると、それを合図にわたしは足許の根っこを引き抜いてまだ顎を押さえている名も知らない彼のところへ足を進めた。

そうは言ってもおよそその距離は4歩程度、2歩ほど進めば自然と彼の目の前に辿り着く。

背後では信号は車道側が青に変わり、信号待ちをしていた人は皆渡りきってしまった所為で渦中のわたしたちしかいなく酷く目立つ。

だけど今はそんな周りのことを気にしている暇はなかった。



「あ、あの…ごめんなさいっ!」

「別に、」

「どう落とし前付けてくれるの?」

「総司、止せ!」

「あれ?許しちゃうの?優しいなぁ、一くんは。僕だったら許さないのに」



言いながらわたしを見遣った総司と呼ばれた彼の友人の口角は酷く上がっていて、それを見てしまったわたしは何か言い知れぬ寒気を背中に感じた。

こう言っては何だけど、ぶつけたのがこの人じゃなくて本当に良かったと何故か心底思ってしまったのだ。

許さないと笑いながらわたしを見遣った彼の声、それだけなのに彼に恐怖を覚えてしまう、きっとその言葉は本気だったと思う。

だけど、わたしが怪我をさせてしまったのはそんな甘いマスクに反して怖い友人ではなくて、今もまだ顎を押さえたままの彼だ。

この人で良かったと思ってしまうのは悪いことなんだけど、少しだけホッとしてしまったわたしは徐に友人くんから目を逸らすと重たいバッグを下ろし、中からタオルを取り出した。

実習でいつだって使うから用意していたタオル、だけど今日は細工物をやったお陰で洗い物もなく使わなかったからとても綺麗なもの。

それを持って屈みこんでいる一くんと呼ばれたわたしが怪我をさせてしまった彼より低く体勢を下ろすと、もう一度謝罪の言葉を掛けながらタオルを押さえている手の上に宛がった。



「本当にごめんなさい…あの、」

「大丈夫だ、問題ない」

「でも…あ、これ、綺麗なんで使ってください」

「いや、血が付いたら使い物に、」

「大丈夫です!それより病院に!」

「そんな大事ではない」

「でも切れるほどぶつけちゃったみたいだし、何かあったら…」

「切ったのはあんたの鞄に付いているキーホルダーの所為だ、もう血も止まる」



タオルを無理やり、あくまでも優しく傷口に押し付けているわたしを特に嫌がるわけでもなくされるがままになっている彼。

ふと顔を見上げれば少々困惑したような顔にはなっているけれど、迷惑行為というわけではなさそうなのでそのまま宛がい続けた。

何よりも見上げた先にあった彼の顔がとても端整で、わたしはこんな綺麗な顔に傷を付けてしまったのかと自責の念で次の行動が取れなかったというのが正しい。

硬直したまま申し訳ない、申し訳ないと何度も頭を下げれば目尻にうっすら涙すら浮かんでくる。

その内に切ったのはわたしのバッグに付いているキーホルダーの所為だと指を指されて見遣ってみれば、目に付いたのはこの間付けたばかりのキーホルダー。

友達が趣味で作った可愛い猫のフェルト生地の縫いぐるみに星型の鍍金のアクセが付いている。

そういえば貰って触ったときに少しだけ痛いと感じたっけ、可愛いからいいやとバッグに付けてみたけれど人に怪我をさせてしまっては申し訳ない、バッグからは外すことにしよう。



「切れ味が良かった、危険だと思うのだが…」

「ごめんなさい、外します…」

「そうした方がいいだろう」



言いながら合った目と目、あまりに真っ直ぐに向けられた視線はとても近くて、わたしはほんの少しだけ俯いた。

それが合図になったのか、されるがままタオルを宛がっていたわたしの手首辺りを一度体温が掠めると、今度は自分でタオルを手に取り止血し終えたか確認する彼。

タオルが離れた後に見えた傷痕は思ったほど深くはないけれど、それでも場所を考えたら痛々しい傷口だ。

押さえるものが何もなくなった傷口からはまだじんわりと血が滲み出て来て、医学には無知なわたしでもどうにもまだ止まりそうにないと解る。

だけど彼は再びタオルを傷口に宛がうと、今度は首にタオルを挟んで押さえたままさっき直そうとした靴紐を結び直して突然立ち上がった。

どうしたというのだろうか、そんな思いのまま立ち上がった彼を見上げて屈んでいると突然見え出したのは周りの景色。

ここは駅前の大通りの先の交差点で、気付けばちらほらと人が信号待ちで集まって来ていた。

一度周囲を見回してもう一度彼を見遣ると、あっちと声に出さず指だけで進路をわたしに教えてくれる。

確かそっちは少し大きな公園があって、ああ、そうか、こんなところで固まって座っていたら大衆の迷惑だと、周りの見えていない自分に少しだけ恥ずかしくなった。

立ち上がりバッグを持って先行く彼と友人くんの後を着いて行けば、やっぱり着いた先は予想通りの公園、平日の昼間でもオフィス街が並び幾つもの大学や専門学校のあるこの街では公園なんかはかなり賑わっている。

歩幅の少し早い二人の後を大人しく着いていくと、まあこれも予想通り、水飲み場の近くのベンチに二人は荷物を下ろした。

そのまま一くんと呼ばれた彼はタオルを濡らしに傍を離れて、流石にそこまで着いていくのは気が引けたわたしは下ろした荷物の隣に腰掛けた友人くんの隣に同じく荷物を下ろすことにする。



「……………」

「……………」



お兄さん早く戻ってきて、そう切に願いだしたのは二人っきりにされてまだ1分と経っていない頃だった。

無言で居た堪れない沈黙ならば目を逸らして何とでもやり過ごすことが出来る、だけどこの甘いマスクの総司くんはそうはいかない。

何も言葉は発しないにせよどうにもさっきからじっとりとした視線を投げかけて来ては意味有りげに口角を上げて、友達がわたしの所為で怪我をしたというのにどこか楽しげだ。

そんな視線が居た堪れなくて徐に視線を逸らしてみたけれど、どうもガン見というやつはされると居心地が悪くて気になって仕方がない。

それでも我慢して目線を合わせないようにしてはみるが、やがては限界が訪れてわたしはタオルを濡らしに行った一くんを探した。

歩いていった先を見遣ればすぐに見つかる彼の背中、タオルを濡らして帰って来てくれればいいものを彼は何故かそのままその場で屈んでしまって戻ってくる気配がない。

どうしたのだろう、突然痛み出したのだろうか、そう思って気持ち少し身体を乗り出してみたところでさっきまで沈黙を守っていた総司くんが声をあげた。



「止血してるんだよ、心配しなくても大丈夫だから」

「…………でも、」

「何?心配性だね。それにしても本当に僕じゃなくて良かったね。僕だったら明日から奴隷にでもなってもらうところだったよ。あぁ、残念」

「……………」

「あははっ、本気にしたの?冗談だよ」



冗談に聞こえない冗談を言われてわたしの顔は青褪めたのだろうか、反応を見るや否や再び高笑いをした総司くんを見てわたしは心底神様を崇めた。

神様は本当にいたんだ、いや、もしかしたら助けてくれたのはわたしの守護霊かはたまた一昨年死んだおばあちゃんか。

久しぶりにこんなに性格のひん曲がった、いやいや、恐ろしい人を見たと顔を背けて苦笑いを浮かべてしまった。




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