背後から凄まじい音がしたのは勝手場の暖簾を潜り、その手から布の感触が消えると同時だった。



「オイ、娘。この店は茶の中に泥など煎れて持て成すのか」



小汚い野次が耳を掠めたのはその直ぐ後、ここ最近、肩の力を張りっ放しだった理由のひとつが今日も形になって訪れる。

またか、そんな風に大きく溜息を吐いて、それから意を決したように踵を返し暖簾を潜り戻れば案の定、口端を上げ眉間に皺を寄せた柄の悪い男が三人。

足許に転がるはついさっき出したばかりの湯呑、だけどそれも無残に形を留めんばかりに床に散らばり、辛うじて陶器であったことだけを教えている。



「そのようなものをお出ししてはおりません、嫌がらせはいい加減止してください」

「入ってねぇだぁ?よぉく見やがれ、茶がこんな色してるなんざ見たことねぇ」



言いながら、手前の男が床に転ばる湯呑の欠片を蹴り飛ばした。

視線を落として見遣れば、零れた茶に紛れどろりとした黒い泥が欠片の端から顔を出す。

入れ物という支えを失ったそれらは叩きつけられたと同時に四方へ飛び散り床を汚し、重みのある泥は大して飛び散ることもなければ張り付いた湯呑の底から傾斜に逆らえずゆるりと流れ落ちていた。

こんな粘着性のある汚い泥は探したとてこの辺りには見当たらない、そんなのは見れば一目で解ること。

先日降った大雨で田畑の水溜りに溜まったそれをわざわざ取りにでも行ったのだろうか、そう思えば逆にご苦労なこったと呆れ返り溜息が漏れた。

五日に一度ほどの頻度でこうして面倒事を起こす輩が店に出入りするようになったのは、凡そニ月ほど前のこと。

何をどうしたらそうなってしまったのかごろつきに見初められ、冗談ではないと開口一発目に断りを入れたらこうして地味な嫌がらせが始まったのだ。

この茶屋はわたしの祖父から代々受け継ぎやって来た店、昨年、店を継いだ父が病で亡くなり、この店を継ぐ兄が京に半年ほど修行に出ている今、守れるのはわたししかいない。

母はわたしを産んですぐに他界してしまったし、親族はいるのだけれどこんな連中に自ら関わろうとする馬鹿は何処を見渡しても居なかった。

当たり前だろう、この辺りは皆商売をしている、正義感を出し面倒事に首を突っ込めばあっという間にお飯食い上げの危機が待っている。

生意気にも断りを入れたから嫌がらせをしているなど、男らしさの欠片もないと思いきやそうじゃない。

店を潰し、居場所も収入も無くなれば嫌でも嫁ぐだろうという魂胆なのだと聞いて更にわたしは呆れ返った。

呆れて物も言えぬとはこのことだ、冗談じゃない、自害してでもあんなごろつきの許へ嫁ぐ気など更々無い。

そう突っ撥ねれば七日に一度の面倒事が五日に一度の感覚に狭まったけれど、今は溜息を吐くだけで何とか凌げている。

ただ、来る度来る度、こうして見に覚えも無い野次を飛ばされては堪らないと、わたしは目端を吊り上げて威勢もそこそこに声を上げた。



「いつもいつもご苦労なことですけどね、何をされてもわたしはそちらさんに嫁ぐ気など更々ありません」



ぴしゃりと言葉を放ち口を噤めば、威勢だけはまだあるなと目の前の男が元より攣り上がっている口端を更に攣り上げた。



「大人しく看板下げた方が店もあんたも傷付かずに済むだろうに、何故こんな草臥れた茶屋を守る必要がある?」

「草臥れていて結構、看板を下げる気はありません故、お引取りを」

「そりゃあ聞けねぇ頼みだ、こっちはもうニ月も通い詰めてんだ。そろそろいい返事が貰えないとなると…」

「いい返事、しなかったらどうするって言うんです?」



大体の予想は付いていた、風の噂でその手の情報くらいは小耳に挟んでいる。

火付けなどされたら堪らないと最初の嫌がらせから随分警戒してきたつもりだ、すぐ裏手には大きな川もある。

此処はめ組の見廻り区域にも入っているし、大丈夫、火付けは無い。

だとしたら強行突破か、無理やりにでも連れて行く気ならばわたしにだって考えがあると、厭らしく笑みを浮かべる男の口許を睨みつけ、気持ち少しだけ足許に力を込めた、その時。

ガシャンとけたたましい物音がし、わたしは思わず身体を震わせた。

手前の男だけに集中し、いつこの手を取られるか解らないと睨み付けていた為にその驚きようと言ったらきっとない。

慌てて視線を外に向ければさっきまでおじいさんが腰を据えて茶を啜っていた軒下の椅子を蹴り倒し、踏み付ける連れの男。

もうひとり居たはずだと視線を泳がせれば立て掛けていた看板を持ち上げ、そのまま一気に店の柱に叩きつけようと振り被った姿が映ってわたしは声を張り上げた。



「ちょ、やめ…っ」

「…う、ごぁ…っ!」



だけどその声は突然叫びだした男の苦しそうな声と看板と共に倒れる耳が痛むほどの音に掻き消え、何処に届くこともなく宙に消え失せた。

その突然の事態に目の前のごろつきも怪訝な顔を隠すことなく振り返る、わたしも何がどうなったのかとほんの少し背伸びをして覗き込めば椅子を踏み付けていた男が甲高い声で叫び声を上げて。

誰か居るのだろうか、こんな状況、目を背ける輩は沢山居れど、自ら乗り込んでくる人など居るのだろうか。

お役人だって近くに居たところでそ知らぬ顔をすることの方が多いというのにこんなこと、そんな気持ちで胸に手を宛がい気持ち一歩後ず去れば、倒れた男の影から小さな身体が目に映った。

別に眼を細めなくとも見えるのだけど思わず眼を細めたのは、大柄なごろつきを相手にするには些か頼り無さそうな短身痩躯の無表情な青年だったからだ。

年の頃は多く見積もっても17くらいだろうか、束ねた髪を横に流し、左手に刀を握ってさも詰まらなさそうにそこに立っている。

わたしは背筋がぞくりと震え上がった、幾ら助けてくれたとは言え店の前で流血沙汰は困る。

それ以前にその静かに佇む、何の色も灯さないような彼の細まった視線が酷く恐ろしいものに見えて、わたしは小さく息を呑んだ。



「てんめぇ……」

「ま、待って、あんた逃げな…っ!」



だけど後ず去っている暇も震え上がっている暇もない、見遣れば子分をやられたごろつきの男の顔が見る見る内に赤く染まりあがり、憤怒している。

はっきり言う、流石にあんな痩躯で大柄なこの男に敵う訳が無い。

誰もが眼を背けそ知らぬ顔をする中で、見知らぬ者の為助けに入るなどどれだけ勇気の居ることか、そこは感謝をするところだ。

だけどそんな見知らぬ誰かの為に彼が犠牲になることはないと、わたしは憤怒に身体が震え上がっている男の横を擦り抜けて名も知らない青年のところに駆け寄った。



「ちょ、何してるの…」

「秦野屋とは此処か?」

「……そ、うだけど…」

「ならば、ユメとはあんたのことか」



まだ刀は左手に構えたまま、静かにわたしを見据えてわたしの名を呼ぶ彼は遠くで見るよりも穏やかな空気を醸し出していた。

何故わたしの名を知っているのだろう、そう口に出して訊きたいのだけれど店の中には身体を震わせながら腰の刀に手を掛けたごろつきがいる。

それどころではない、早くこの人を逃がさなければとその肩に手を掛け気持ち少し押せば、何故か下がっていろと声がする。

そうじゃない、そうじゃなくてあなたはこの場に関係ない人なのだから命を掛ける必要など何処にもないのだ。

だからさっさと此処を立ち去ってくれなければ、ひとつ屍が増えるだけだと足許で倒れている二人の男を思わず見遣った。

だけどおかしい、刀で斬られたはずの身体なのに血痕ひとつ地面に落ちていない。

不思議に思って構えている彼の刀身を見遣ればそこにも何も付着していない、綺麗に手入れをされて光り輝く刃があるだけ。

それからふと、わたしよりほんの少しだけ高い視線に眼を向ければゆっくりと眼がかち合って、



「峰打ちだ、殺してなどいない」

「………あんた、一体…」

「近藤さんの遣いで団子を買いに来た。十ニ本と萩を六つ包んで貰えぬか?」

「……近藤さん、て…試衛館道場の?」



言葉を漏らせば彼は声を出すことなく、こくりと小さく頷いてわたしの予想が当たっているということを教えてくれた。

試衛館道場は此処から大通りを通った先にある剣道場で、今は勇さんが継いでいるというそこだ。

彼の奥方であるつねさんがうちの店の菓子をとても気に入ってくださっていて、よくおひとりでも買いに顔を出してくれていた。

あそこは荒っぽいが腕の立つ剣士がとても多いと聞く、だとすれば彼もまたそうなのだろうか。

いや、だとしても、だからこそ迷惑を掛けるなどそんなことはあってはならないと、わたしを庇うよう前に立ちごろつきを相手にする姿勢を取った彼の肩をもう一度思い切り掴んだ。





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