昼八ツ頃までは覚えている。
九寿の帰りを待って、だけど風間と顔を合わせたくないから部屋でじっとしていて、気が付いたら眠ってしまっていたらしい。
起き上って身体の筋を伸ばしながら部屋を出てみると、西の空が綺麗な茜色に変わっていた。

さすがにもう帰ってきているだろうと出向いた九寿の部屋の中からは人の気配がする。

そっと障子を滑らせて中を覗けば文机に向かう彼が振り返り、だけどあたしの姿を確認するとまた元に戻って右手を動かす。
何も言わないという事は、入っても構わないという意味だと知ったのはつい最近の事だ。
忙しかったり入って欲しくなかったり、そんな時は必ず立ってあたしのところまで来て用件を訊いてくるのだから。

そうして部屋に足を踏み入れたあたしは背中越しに彼が筆を動かしている事を確認すると、揺らしてしまわないよう気を付けながら彼の背中に自分の背中をくっつけて座り込み膝を抱えた。


「……また風間と喧嘩をしたようですね」

「……喧嘩なんて可愛らしいものじゃないよ、あんなの」


彼が喋ると背中越しに振動が伝わってきて、それは彼が手を動かしてる振動とはまた違って、その低音は酷く心地好い。
もっと強く感じたくて、彼の背に頭を預けたあたしは目を閉じた。


「……ねぇ九寿」

「なんです?」

「あたしってそんなに魅力ないかなぁ」

「…………」


別に風間の言った事を気にしてるわけじゃない、そうじゃないと自分に言い聞かせてみてもどうにも気になってしまうんだから仕方ない。
あたしは九寿の許嫁としてこの屋敷に来たけれど、彼と確かな約束を交わした事なんてなくて、だからあたしだけがそのつもりでいるだけで、彼にその気はまだ無いのかもしれない。
あたしは屋敷に来て少しずつ彼に惹かれていったけれど、彼はそんな風にあたしを見てくれてはいないのかもしれない。
そうだとすればそれはやっぱりあたしに魅力が無いからだって事くらい、あたしにだって解る。

そこまで考えて勝手に気分を落ち込ませたあたしの口からは半ば無意識で溜め息が零れ落ち、それまで動きを止めていた彼が僅かに身じろぐ。
首を捻って彼を見上げれば、同じく首だけを回してあたしを見下ろす視線とぶつかった。


「……風間に何か言われましたか」


その瞳は戸惑うように揺れていて、だから答えに困ったのかもしれない。
はっきりとした答えをくれず質問に質問で返されて、その上昼間の風間の言葉を思い出してしまったあたしは唇を突き出し、ふいっと首を戻す。

魅力が無いなら無いでそう言って欲しいし、どういう女の子が好きなのか教えて欲しい。
そうしたらあたしだって頑張れるのに。
あたしが傍に居る事を無駄だなんて言わせないのに。


「……あたし、風間の事好きじゃない」

「……知ってますよ」


少しだけ揺れる彼の身体、そして筆を置く微かな音。
彼の口調は普段と変わらないものだったけれど、彼が仕える相手の事を嫌いだと言ったのだ、さすがに怒らせてしまったかもしれないと思うと振り向けなくて、あたしは抱える膝に顎を乗せた。


「……あたしの事、嫌いになった?」

「何故です?」

「……だって、」


このまま九寿と結婚すればあたしはこの屋敷に住む事になるのだろうし、そうなれば風間の身の回りの世話をする事だってあるんだと思う。
家臣の妻が、夫の主が嫌いだからと言って仕事を放棄出来る立場ではないだろう。
勿論言い付けられた事はするつもりだけど、でも初めから風間の事が嫌いだと解っているのなら、最悪の場合あたしとは結婚出来ないって、そう言われたっておかしくはないのだ。

待って、そもそも風間に追い出されたらどうするの?
それでも九寿はあたしと結婚してくれる?
それともやっぱりそんな女とは結婚出来ないって思うのだろうか?
最後に見た風間の怒りの形相を思い出し、血の気が見る間に引いていく。

だけど丸めたあたしの背中に降ってきた彼の言葉は、あたしが思ってもみないものだった。


「おかしな事を言いますね。貴方は私の妻になるのだから、風間の事を気にする必要など無い筈ですが」

「…………え?」


ぐるぐると頭の中を駆け巡る彼の言葉、それはいくら考えても、むしろ考えれば考えるほど良い意味にしか捉えられなくて。
そろりと身体を反転させてみれば彼はもう書きかけの文書に再び取りかかろうとしていて、あたしは膝立ちになってその背にぴたりと密着すると、肩越しにその顔を覗き込む。

それは私を九寿のお嫁さんにしてくれるつもりがあるっていう事?
風間はあたしの事を魅力が無いって言うけれど、九寿はそうは思ってないって事なの?

遠回しではあるけれどそう言ってくれた彼の気持が嬉しくて、胸がいっぱいになったあたしはそのまま彼の首に両腕を絡ませてぎゅうと抱き付いた。


「……ユメ」

「んー、もうちょっと……」


そう言いながら彼の前で交差した腕に力を込めて、そうしたらその刹那、何かが優しくあたしの頭に触れた。
それはほんの一瞬の事で、何だろうと彼の首元に埋めていた顔を上げてみれば、あたしの視界は彼の手が下ろされた瞬間を捉えて。

触れたのは彼の指先だったのだと気付いたあたしは、どうにも緩んで仕方が無い口元を抑える事が出来なかった。


「……ユメ、手を」

「嫌」

「…………」

「あ、また溜め息」


あたしの腕に彼の手が掛けられて、離すのは嫌だと小さく首を振れば、聞こえてきたのは今まで聞いた中でも一番なんじゃないかって思えるほどの重たい溜め息。
これはさすがに聞き流せないぞと膨れて文句を言うと、けれど彼はぴたりと動きを止めた。

どうしたのだろうと覗き込んだ顔は考え込むように文机の一点を見詰めていて、やがて訝しそうな顔であたしを見遣る。


「……ユメ、貴方はもう少し自覚を持った方がいい」

「……自覚?」

「何故溜め息が出るのか、考えた事がありますか?」


そう訊かれたけれど、溜め息が出る時なんて、疲れた時や気が滅入った時じゃないの?
なんて、それはつまりあたしが彼にそう感じさせてしまっていると自分で認めたようなものだけれど、でも今は彼の言葉の真意が知りたいから、それは考えない事にしてただ小首を傾げた。

それと同時、話に気を取られて力が抜けていた腕が彼によって外されてしまう。
あっと思ったけれどもう遅く、だけど今度は身体ごとあたしに向き直った彼があたしの両手を掬い取って、そしてぺたりと尻を着いたあたしに言い聞かせるように彼は言ったのだ。


「あまり無闇に触れていては、徒に理性を刺激するだけですよ」


瞬きを数度繰り返す間、やっぱり遠回しな彼の言葉の意味をあたしは必死に考えた。

触れられたら理性が刺激されて、そしたら溜め息が出るの?
つまり溜め息が出たら、それは九寿の理性が刺激された時だって、そういう意味なの?

そこまで考えて理解が追い付いたあたしは、いつだって彼に触れたくて、そして実際にそうしてきた自分の行為を余すところなく思い出して頬を染めた。
でも触れたいと思ってしまうんだから仕方ないじゃない、あたしは自分の欲求に忠実に生きてるの。

そういう意味を込めて、両手で熱くなった頬に触れながら彼を見上げれば、そんなあたしの顔を見た彼はまた一つ大きな溜め息を落とした。





フォロ霧さんの憂鬱






もう一度、今度は正面から抱き付いて、溜め息じゃなくて受け止めて欲しいのと遠慮がちに囁いてみれば彼は驚いたような顔をして、それでもあたしをその大きな腕でしっかりと包み込んでくれた。




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