あたしが朝食を終える頃には、炊事場ではもう昼食の支度が始められている。
本当ならあたしもその中に加わるべきなんだろうけど、料理の経験なんて皆無なあたしが居たって邪魔なだけだろうと、あたしはいつもそれを隅に立って眺めている。
だけどいくら勉強の為とはいえただ見ているだけなんてすぐに飽きてしまい、手伝ってくれと言われないのをいい事に、いつものように四半刻もしないうちに炊事場を後にした。

ふわふわする頭で、これだけ天気が良いのなら縁側で昼寝でもしようかなんて欠伸をしながら廊下を歩いて、けれど角を曲がった先に見つけた背中に、あたしの足は知らず駆け出していた。


「九、わっ!」


彼の名を呼びながら、振り向いた彼の前で足を止めるつもりだった。
なのにその足は走った所為か磨き上げられた床板に滑って、止まろうと焦るあまり足が縺れて身体の均衡が崩れる。
そうして転びかけたあたしの身体を、彼の腕は難無く受け止めてくれた。


「……あ、ありがとう」


恐る恐る見上げた彼の顔は、困ったような呆れたような、とにかく今にも小言が降ってきそうなもので、だからそれを待つよりも早く口を開く。


「ね、出掛けるの?」

「えぇ。何か必要な物でもありますか」

「何処に行くの?一緒に行ってもいい?」

「文を届けるだけです。すぐに戻りますから」

「邪魔しないから」

「……ユメ」


ぐっと寄せられた眉根に、彼は本格的に困惑しているのだと解ってはいるんだけど。
あたしに必要なものは貴方だって、そう言ったらその眉間の皺が増える事も解っているんだけど。
それでもあたしは彼の羽織をぎゅうと握り、その手を放せないでいる。

そんなに困った顔しなくてもいいじゃないと、泣きたい気持ちにすらなってくる。

これ以上彼の顔を見ていたくなくて俯いてしまえば、やがて羽織に皺を作っているあたしの手が温もりに包まれて、そしてあたしの指を優しく一本一本解いて羽織から引き離していく。

解っていた結末だけどやっぱり胸が締め付けられて、けれど引っ込めようとしたその手は思いがけず彼の両手に包み込まれた。

そうしてあたしの手を握った彼が片膝を着いてしまえば、俯いているあたしは視線を逃がせられなくなってしまう。


「京で評判の菓子を買ってきます」


その表情には薄らと微笑みが浮かべられていて、そんな顔をされてしまえば否とは言えないあたしは小さく頷いた。

玄関まで見送ると言うと、彼は草履を履くその時まであたしの手を離さないでいてくれて、だけどその手が離れてしまえばすぐにでも物足りないと不平を漏らすあたしの心。

我が儘だなんて、そんな事誰に言われるまでもなく解っている。
何をしても強く咎めない彼に、甘えているだけだって。

まるで赤子だ。
泣いて愚図って駄々を捏ねる赤子のあたしに、それをあやす大人の九寿。
そんな風に考えて、あたしはひとり自嘲を浮かべた。















「まるで蝿だな」


彼を見送ったあたしはやっぱり暇を持て余して、陽射しが降り注ぐ縁側に身体を横たえていた。
すぐにやってくるだろうと思っていた睡魔はなかなか現れず、ぼんやりと庭先を眺めながら先程の九寿とのやり取りを思い出していたあたしに、不意に背後から声が掛けられた。

振り返らずともそれが誰かなんて判っているから、あたしは沈黙したまま無視を決め込む。


「飽きないお前もお前だが、振り払わない天霧も天霧だな」


なのにその男は当たり前のように腰を下ろす。
この屋敷はこの男のもので、だから誰にも文句は言えないのだけれど、そんなに暇なら九寿にさせずに自分で文を届ければいいのに。
なんて口には出せないからその代わりに起き上がって睨み付けてみるが、偉そうに居座る風間にはそんなものは功を奏さない。


「どうしてあたしが振り払われなくちゃいけないの」

「鬱陶しいものを振り払うのは当然だろう?」

「九寿はあたしを鬱陶しいなんて思ってない」


語気を強めて言ってみたところで風間は薄笑いを浮かべたままで、あたしは人を見下したような態度を取るこの男がどうしたって好きになれない。

あたしの鬼の血はそれほど濃いものではなくて、だから頭領である風間に嫁ぐなど有り得ない事と生まれた時から決まっていたけれど、それでもこの屋敷に来て風間の性格を知った時、この男が相手じゃなくて良かったと心底思ったものだ。


「その証拠にあたしはこの屋敷に居るじゃない」


もしも九寿が本当にあたしを鬱陶しいと思っているのなら、あたしはとっくに実家に帰されている筈だ。
そうしたらあたしはもう、九寿の許嫁ではなくなってしまう。


「天霧も酔狂なものだ」

「……どういう意味よ」

「お前のような女を側に置いておくなど、酔狂としか思えんだろう?」


多分この時、もしもあたしの手の届く範囲に何か物が置かれていたのなら、あたしは迷わずそれを風間に向かって投げつけていたと思う。
だけどこの男は頭領で、九寿が仕える相手なのだ。
本来ならばこうして睨み付ける事すら許される事ではないんだろうけど、それでも何も言わない風間はきっとあたしの反応を見て楽しんでいる。


「魅力のない女を娶るほど無駄な事はないからな」

「……魅力が無いのはお互い様なんじゃないの?」


ちらりと横目で窺った風間は訝しげにあたしを見ていて、このまま言われっ放しでは怒りが収まらないあたしはこの前小耳に挟んだ話を思い出し、ひっそりと心の中でほくそ笑んだ。


「女の尻を追っ掛けて袖にされるなんて、よっぽど魅力が無い人がされる事だと思うけど?」

「……貴様」


途端に怒りも露わに形相を変える風間、だけどそうなる事など初めから予測済みだったあたしは立ち上がると風間に向かって思いっきり舌を出してみせ、そして素早く身を翻して自室へと逃げ込んだのだった。




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