わたし、斎藤くんに嫌われちゃったの?仲良くなったわけではないのだけど、それでもこうして気兼ねなく喋るようになれたのに。 別に斎藤くんのことが好きとかさ、そういうんじゃないんだけど彼と話すことが最近、非日常的なことに思えてきて凄く楽しかったのに。 だから流石に嫌われるのは堪える、胸の奥がぎゅうっと痛むし、そんな眼を向けられることが怖いんじゃなくて嫌だ、だけど、 「ごめんなさい」 喉の奥から搾り出すように発した声は少し震えていた気がした、そのまま視線を上げることもなくくるりと踵を返して身体を反転させれば思わず溢れそうになる涙。 だけどそれを堪えて、言い訳したい気持ちを押し込めたままわたしは目の前のドアノブに手を掛けた。 もしかしたら彼の中で約束を破ると言う行為がタブーだったのかもしれない、そこにどんな理由があれ、それ自体がタブーだったのかもしれない。 それならばどんなに理由を話したところで向けられたその眼は変わることなどないんだ。 わたしがどんなに言い訳をしたところで、その眼が昨日までのように戻ることはないでしょう? ならば、泣き出しそうな顔を見せて見苦しく言い訳をするくらいならば、此処は潔く去ろうと、わたしは震えそうな手に力を込めてドアノブを回した。 「佐藤…」 だけど、この耳に声が届いたのは扉を押し遣ろうとしたと同時だった。 突然呼ばれた名前に一瞬びくりと身体を震わせ硬直させていると、背後で床を踏む音が聞こえる。 特に返事もせず、ドアノブを回したままの状態で固まっているわたし。 そんなわたしの真後ろで衣擦れの音が聞こえ、それから斎藤くんが膝を折った音がしてわたしは恐る恐る後ろを振り向いた。 見遣れば彼はわたしの真後ろで怪訝な顔をしながら膝を着いて座り込んでいて、そして今まさにわたしのスカートの裾を捲し上げようと指で掴んでいて、 「ちょ、何して……っ」 「この傷はどうした?」 ぴらりと気持ち少し捲られたスカート、それを真面目な顔して捲っている斎藤くん、傍から見ればどれだけ怪しい図なのか彼は解っていないようだった。 本当ならばその手をぶっ叩いて、エッチの一言でも叫んでやりたいところなんだけどどうにも身体が動かなくて為すがまま。 だけど、わたしの太股の裏の傷を差しているだろうその言葉に、今は逆にこの現状を打破出来るチャンスだと、わたしは特にこの怪しい図は見なかったことにして小さく口を開いた。 「…3限目の体育のときに準備室で引っ掛けた」 「何故保健室に行かん?こんな傷、処置しなければ残るぞ?」 「一応消毒はしたけど…原田先生が包帯巻くとか言うから…」 わたしが今日、スカートを折った理由、それがまさにこの太股の傷。 丁度スカート丈とギリギリの位置にある所為で後ろを振り向いたときに見えたのだろう、まだ出来たてのそれは少しだけ生々しい痕だった。 3限目の体育の授業でバレーをやったとき、準備室でボールの籠をしまう際、うっかり後ろにある棚に引っ掛けてジャージごと太股の裏が裂けてしまったのだ。 縫うほど酷くもないし深くもないから保健室で消毒して貰って、絆創膏じゃ足りないから包帯を巻くと言った原田先生の言葉を遠慮してそのままにしていた。 だって脚に包帯とか馬鹿馬鹿しい、たかが切り傷だ、そんなことで脚に包帯巻いたなんて言ったら火傷だらけのお兄ちゃんに笑われてしまう。 その代わり、丁度スカートの裾と同じ場所に傷があった所為でそれは歩くたびに擦れて酷く痛みをわたしに与えていた。 別に傷自体は言うほど痛くないのに擦れて痛いなんて流石にそれは嫌だ、だから見えるのも嫌だけどしょうがないよね、と折ったわけで。 話せば解ってくれる人だから今回も見つかったら話せばいいやと簡単に考えていたから、わたしはさっきの斎藤くんの眼が嫌だと再び視線を前に向けて小さく零した。 「巻いて貰えばいいだろう?」 「嫌…そんな大袈裟な傷じゃないんだから」 「傷が残ったらどうする?痛々しい傷に見えるんだが」 「平気…でも……」 「でも?」 「…歩くたびに裾が当たって痛い…」 「…………」 ぽつりと零したそれに斎藤くんはわたしが裾を折っていた理由に気付いたのか、小さく声にならない吐息を吐いて、それから慌てたようにすまんと声を荒げた。 だけどその言葉にホッとしたのはわたしの方、ちらりと後ろに視線を送れば眼を泳がせて座ったままバツの悪そうな顔をしている斎藤くんが居る。 そんな彼を見てやっと肩の力が抜けたわたしは、掴んでいたドアノブから静かに手を離し、それから特に隠すこともなく大きく溜息にも似た深呼吸をして一度目を瞑った。 「……今日はこのままのが有り難いんだけど…ダメですか?」 「……いや、問題ない…すまん…酷いことを言ったな」 「まあ…わたしも先に言えば良かったんだけど」 言わせてくれなかったのは斎藤くんだ、だけど、いつもの調子でおちゃらけている暇があれば一言これ見てと、そう傷を見せればきっと済むことだった。 だから勿論わたしにも非はあって、だけど流石に斎藤くんの嫌い発言はちょっと傷付いたなぁ、と。 そう小さく零せば彼は口を噤んで、まるで返す言葉もないと言いたげな表情で目を伏せ小さく肩を落とした。 とりあえず、そのままで構わないと言っても傷が化膿でもしたら困るだろうと、お昼を食べ終わったらちゃんと絆創膏でもいいから保護するようにと呟く斎藤くん。 その表情も何処か視線が泳いでいて、こういう斎藤くん、一体どれくらいの人が知っているのかなと思うと、少しだけ沈んでいた気分も晴れてきて。 別に彼の一挙一動に擽られるわけじゃないんだけど、こうして時折見せるその百面相にも似た表情がまるで普段の鉄仮面とは大違いで面白いと。 わたしは自然と零れる笑みが隠すことが出来ず、今日は一緒にお弁当食べようかと、つい口をついてしまったのだった。 もう少しその表情を見ていたいな、なんて思ったことは内緒だ。 どうしてそう思ったのか、このときのわたしはまだ知らない。 その気持ちに気付くのはもう少し先のことで、気付かないからこそ言える言葉もあって、わたしはそんな鈍感な自分が酷く恥ずかしいと、後に後悔するのだった。 「傷付いたので要求をひとつ聞いて貰ってもいいですか」 言えばお弁当の厚焼き玉子を箸で掴んで持ち上げる彼の手がぴたっと止まった、それから綺麗に眉間に寄るのは2本の皺。 嫌な予感を感じる、そう言わんばかりのその顔がゆっくりと目の前でパンを食べているわたしを見遣って。 そんな顔もいいなぁ、なんて暢気に思えば自然と口角が上がってしまう、別にしてやったりというわけじゃないのに、彼にはそう映ったかもしれない。 その口は肯定もしないけれど否定の言葉も零さない、だから、内容によりけりというわけかとひとり勝手に解釈したわたしは、口に含んだパンをコクリと飲み込むと同時に呟いた。 駅前にオープンしたケーキ屋さんのシュークリームが凄く美味しいって評判なんだけど、午前中で売り切れちゃうの、付き合ってくれない? そう零せば一瞬目を丸くし、だけど数秒の後にそんなことならと小さく了承の言葉が耳に届いて。 少しだけ何かを考える素振りをしたけれどすぐに元に戻った彼の表情を見て、その何かを察することができない鈍感なわたしはそれを笑顔で返すのだった。 午前中で売切れてしまうものを買いに行くのならばそれは休みの日に行くしかない。 つまりそれはデートの約束を取り付けたのだと気付かなかったわたしは、自分の鈍感さを後に呪うのだった。 そんな2週間後のとある昼休みの話、ほんの少しだけ近づいた日。 end |