「美味しいお菓子を作るには、材料もおいしくないと出来ないよ」 「うむ、まあ、そうだろうな」 「とりあえず小麦粉!小麦粉はフラワーじゃなくてバイオレットのがいい!粒子の荒いフラワーはスポンジが綺麗に膨らまない」 「フラワーは製菓用ではないのか?」 「製菓でも使えるけどお店では使わないかな。スーパーなんかで買うと割高だけどバイオレットのが軽くて製菓にはいいよ、プロで使う人もいるくらいだし」 「覚えておこう」 「バターは塩不使用だよね?」 「それは勿論…製菓用のマーガリンでは何か変わるのか?」 「ジェノワーズは言うほど変わらないよ、使う量も少ないし。ただ、クッキーとかパウンドケーキとかはマーガリンだとコクがないし、オススメしないかなぁ」 「…なるほど」 「生クリームは動物性!人によるけどわたしは違うパーセントのを合わせるのが好きかなぁ…」 「……違うパーセント?」 「色々あるんだよ、32%から45%くらいまであるかな?合わせるのと合わせないのじゃ全然違うよ?まあ、これは好みだから1種類でも問題ないけど。基本40%くらいじゃないかな?」 「植物性は何故ダメなのだ?」 「ダメじゃないけど、家にまだ残ってる?動物性の方と食べ比べてみてよ。違いが一目瞭然だから。でもローソンの美味しいロールケーキは植物性なんだよね…あれは不思議…」 「…ほう、」 家に着いて流れ作業のように説明を始めると斎藤くんは食い入るようにわたしの手許を見て頷いた。 家のキッチンはお陰様でかなり広い、家族も4人だからその分リビングは広いとは言えないけれど充分なスペースがある。 パティスリーが家の隣にあるからいつだって焼き菓子のいい匂いが部屋の中を立ち込めていて斎藤くんの気を逸らすけれど、そんな気が逸れる前に一通り説明を加えておいた。 我が家にはキッチンにも製菓材料や器具は便利なほど揃っているので、特に困ることはない。 それはお母さんが月に2回、ここで製菓教室をやったりするからなんだけど、わたしはいつもそれのお手伝いをしているから何処に何があるかなんてお茶の子さいさいだ。 長テーブルの上に必要な機材と器具、それから材料をポンポンと並べていくとわたしは真横で突っ立っている斎藤くんに言った。 「ところで、部活はいいの?主将さん」 「先週末に試合があって休みがなかった、明日まで各自自主トレだから問題ない」 「ああ、そういえば日曜日の補習、沖田くん居なかったわ。試合だったんだ?」 「総司は試合がなくとも出席していないと思うぞ」 「……そうなんだ」 湯煎用のお湯を沸かして型を用意して、流石に今日はお休み前でそれも仕込みの忙しい今の時間にオーブン貸してなんて言えないから家庭用のオーブンを温める。 家庭用オーブンと言ってもうちのオーブンは電圧がかなり大きい、お母さんが使っていた石釜オーブンはかなりの電圧を食うから色々多用しているとたまにブレーカーが落ちるほど。 何はともあれと二人で並んで手を洗いながら、頼んできたのは斎藤くんにしても突然予定を入れてしまったことに申し訳なさも感じつつ口を開けば特に気にした気配も無さそうだった。 先週の日曜日、学年一括の合同補習があったのだけど勿論そんなものに斎藤くんは出ていない。 成績が悪かったとかではなく、今度の全国模試のための補習が開かれたそれに確か沖田くんの名前があったはずなんだ。 沖田くんは密かにわたしが格好良いと思っていた人だ、だから名前を見つけてちょっとだけ目の保養が出来ると喜んでいたのに居なかったから覚えていただけのこと。 正直、クラスも違うし喋ったことなどないし、格好良いとは思うけれどそれ以上先を望んでいるわけでもない。 まあ、あれだ、単なる目の保養というあれだ。 最初は見かけるたびにキュンとさせていた胸も、いつの間にかキュンと鳴らなくなっていたっけ、いつからだろう?全然覚えてない。 その所為か、彼と仲の良い斎藤くんのこともよく見掛けていて、だけど恐ろしい風紀委員さんだったばっかりにわたしは逃げまくっていたんだ。 あ、もしかしてその所為かもなんて、隣で黙々と手を洗っている斎藤くんを睨んでみたりもした。 制服が汚れると困るからと、ブレザーを脱いだ上に余っているコックコートを着せて腕を捲くらせれば今日始めて着たくせに色々と様になっている斎藤くん。 よくよく見遣らなくても斎藤くんだってかなりのイケメンだ、そりゃ何でも似合うことは必須だと思うけれど、こうもあっさり着こなされるとなんか切なくなってもしまう。 器具にアルコールを噴き付けて消毒し、うちでお父さんが焼いているジェノワーズの配分で計量を始めれば自然とテンションが上がりだした。 全卵 150g 卵黄 Mサイズ1個分 グラニュー糖 75g 蜂蜜 10g 小麦粉 85g バター 20g 牛乳 10g 作り方は簡単だ、まず全卵と卵黄をボウルに割り入れてグラニュー糖を入れてハンドミキサーで混ぜ合わせる。 空気を手早く沢山含ませるためにボウルを斜めにしながら3速で混ぜるのがコツで白くもったりするまで頑張るのだ。 ある程度立ってきたら高速で回すのは止めて、リュバン状になるまで1速でゆっくり、きめを整えるように混ぜ合わせる。 リュバン状とはミキサーで生地を掬ってボウル内に2周円を書くように垂らし、2周目になったときにも1周目がはっきりと線が残っていて、尚且つボウルを揺すったらすぐに消える状態のこと。 これがしっかり出来ているか居ないかでスポンジの膨らみ具合は格段に変わってくる。 牛乳とバター、蜂蜜は一緒のボウルに入れて用意した湯銭に火を止めた状態で入れて温めておいて、リュバン状になった生地に粉を入れる。 粉を入れるときもコツがあって、合わせるときは無駄なく早めに合わせるのがコツ。 ダマになりやすく、ここでダマになると折角の生地も台無しになるし、早く合わせなければいけないと焦って折角入った空気を潰してしまえばやはり萎んでしまうこともある。 溶けた牛乳たちが人肌程度の温かさになったら生地と均一になるよう合わせて、またリュバン状になるまで泡を潰さないよう、だからといって合わせすぎないよう混ぜ合わせる。 これが案外難しい、見極めるとはそういうことだ、それが1回やそこらで誰でも出来るのならばプロは必要ない。 合わさったら型に流し入れ、あらかじめ160℃に予熱していたオーブンに入れて焼き色を見ながら35分ほど、でも家庭用オーブンなら45分ほどを目安にするといい。 焼き上がったら丈串で中心を刺して、何も付いてこなかったら取り出して型から外し、粗熱を取ったらもう完成だ。 凄くシンプルで一見簡単なように見える、だけどシンプルだからこそ誤魔化しがきかないのは事実で、案外この罠に人は嵌りやすいんだ。 焼き菓子はお菓子の基本、だからこそ焼き菓子が不味ければ全部台無しになる。 これは自論だけど、お父さんも言っていた、焼き菓子が不味い店に美味しいケーキはない、と。 「後はオーブンに任せるとして、わたし果物パクって来るから斎藤くん生クリーム泡立ててくれる?」 「承知したが…パクって平気なのか?」 「平気平気ー!一言言うから。あ、生は5分立てくらい、って解る?」 「……ごぶだて?」 「垂らしたときに跡が出来てそれがすぐに消えるくらい」 「立てすぎなければいいのだな?」 「うん、お願いします」 言いながら斎藤くんを残してわたしは隣のパティスリーへと足を運んだ。 キッチンの裏口から出て真正面がパティスリーの裏口になっているお陰ではっきり言って5歩あれば店に入れる距離、そこから入ればすぐにお兄ちゃんと鉢合わせした。 果物頂戴と言って返事も聞かずに開けた冷蔵庫の中には旬の果物といつものやつらがいっぱいだ。 ブルーベリーとフランボワーズの箱、それからキウイとオレンジとライムの葉っぱ、苺は高いから遠慮して4粒。 もっと奥を覗き見れば、お父さんが作ったチョコレート細工があった、バットに入って端っこに寄せてあるやつは欠けて売り物にならないもの。 これも戴きますと全部纏めて小箱に入れると、さり気なく桃缶も持って颯爽と撤退する、だって邪魔になるからね。 去り際、お母さんがパイ生地を作っているのを見て、切れ端余りそうだったら後で貰おう、なんて考えながらキッチンへ足を急がせた。 「斎藤くん、出来た?」 「………襲撃にあった」 「ぶっ!ちょ、それ何っ」 帰ってテーブルに小箱を置きながらわたしは噴出した。 だって斎藤くんの頬と目の上、髪の毛に至るまで細かく飛び散った白い液体が斑点のようになっていてとても可愛かったから。 これがあの恐ろしかった風紀委員なのだろうか、飛び散った生クリームをどうすればいいのか解らずに放心している今の斎藤くんはただの草食男子だ。 それでも泡立てている途中だからと手を止めず、しっかり任務を全うしようとする姿はさながら忠犬のようでなんか憎めない。 自分のことよりもよっぽど土方先生に美味しいものを作ってあげたいのか必死の表情をする彼を、もうわたしは怖いとは思えなかった。 何だ、怖い人だと思ってたのに、喋ってみれば普通の人だ。 あまりにもその斑点を拭おうとしないものだから見兼ねてわたしがタオルで拭いてやれば、少し照れ臭いのか視線を逸らせてすまないと呟く。 こんな斎藤くんを知らないでわたしはいつも逃げ回っていたのか、これは本当に面目ない。 よく人は見かけで判断するなと言われたけれど、斎藤くんは見かけでなくそのオーラが怖かった。 毎朝必ず、物凄いオーラを放ってさながら魔王のように校門で仁王立ちしている姿は恐怖以外の何物でもなかった。 口調だってはっきりとしているくせにあまり余計なことを言わない所為がとても無口で冷たい印象を持っていたのに、なんか悪い言い方じゃないけれど拍子抜けだ。 真面目だ真面目だ、ああいう人は合わないと、自分が勝手に線を引いていたのかもしれない、そう思うと何故だか急に自分が恥ずかしくなった。 丁度いいタイミングで手を止めた斎藤くん作のクリームシャンティーは5分立てを少し過ぎた6分立てというところ。 どうせ7分ギリギリまで手で混ぜ合わせるからもうこれで大丈夫だとラップをして冷蔵庫に直して今度は片づけを開始する。 キッチンは狭い中で色んなことをするから片付けながらがセオリーだよと言えば、黙々と手を動かしながら頭で頷いてみせる斎藤くん。 片づけが終わり、今度は一緒に果物を切って飾り付けのデザイン案なんか出していればなんかもうただのおままごとだ。 大きく膨らんで色づきだした生地をオーブンの隙間からこっそり覗き見る斎藤くんなんて可愛いの一言。 まだあと10分あるよと声を掛けても聞こえないのか、気になって気になって仕方がないらしい。 最後に生地の表面に打つためのシロップを用意すれば、もうやることもない。 ジェノワーズが焼けたとしても粗熱を取るために時間もかかるしと、紅茶を入れて呼んでみてもオーブンの前から離れる気配がない。 「…あの、斎藤くん?お紅茶入りましたけど…」 「………あと5分だ」 「いや、あと5分オーブンの前にいるの?何その遠足前の子供みたいなの」 「……しかし」 「大丈夫だよ、5分立ったら呼んでくれるよ」 必死の説得とはよく言ったもの、内心、呆れ半分面白いの半分な気持ちでリビングに手招きすれば、渋々といった感じでオーブンの前を離れた。 っていうか、何その後ろ髪引かれますって感じの離れ方!たかがオーブンの前から離れるだけでなんでそんな哀愁漂わせてるの、この人!面白いんですけど! 結局リビングに呼んだはいいものの、彼はオーブンから目を逸らすこともなく、紅茶に口をつけることもなく。 ピーピーという間抜けな音と共にソファーを飛び越えん勢いでオーブン前に走り戻ったのはこの4分後の話である。 next |