「……新八さん?」


もう一度小さく呼び掛けてやはり返答が無い事を確認し、静かに膝立ちになって彼との距離を更に詰め。

ゆっくりと差し伸べた両手で彼の頬に触れる。

本当はそのまま口付けてしまうつもりだった、けれど眠っている新八さんの体温は少し高めで、それに対してつい先刻まで洗い物をしていた私の手は冷えていて、だからその温度差に彼の目蓋が僅かに動いてしまった。


「……ユメ?」


多分彼は今何が起きているのか解っていないのだろう、その証拠に息が掛かりそうなほどの距離にある私の顔をじっと見つめながら数度瞬きを繰り返す。

やがてその動きが止まったかと思えば新八さんの頬は途端に赤く染まり、私の両の掌に感じる温度も急上昇していった。


「……え?ちょ、ユメおまっ、何し」

「触れても、いい?」

「触れ、つーかいや、もう触って」

「唇に」

「あぁ唇に……く、唇!?ちょ、待っ…!」


困惑し騒ぐ新八さんに構わず顔を近付け、けれどそれを止めるかのように二の腕を彼の大きな手に掴まれてしまう。


「待てって、どうしたんだよいきなりこんな、」

「だって新八さん……」


触れてくれない。

そう呟いた言葉は消え入りそうな程か細かったが、それでも今の二人の距離では新八さんの耳まで届いたらしく、彼の目が瞠られる。

そして戸惑いの色を浮かべた瞳は逸らされてしまった。

それはつまり、彼に覚えがあるという意味に他ならない。

私と新八さんが恋仲になり、そんな関係になってしまえば身体を繋げるまでにそう時間は掛からなかった。
いつしか彼が非番の日はこうして家に上がって夕飯を食べ、それから睦み合う事が当たり前になっていたのだけれど。

そんな彼が、二月ほど前からだろうか、私に触れようとしなくなったのは。

初めのうちは、きっと疲れているのだろうと、彼を心配こそすれ不安になる事はなかった。
けれどそれが二度三度と続いてしまえば、どうしても心に靄が掛かっていってしまい。

もう私に対する気持ちが変わってしまったのだろうかと、そんな考えが頭の中を支配して。
それでも会う度に彼が見せてくれる笑顔は以前と何も変わらないもので、それが余計に私を苦しめた。

いっそ訊いてしまえば楽になれたかもしれない、けれどはしたない女だと思われたくなくて、そしてそれ以上にもう気持ちが無くなってしまったと告げられる事が怖くて何も言えずにいて。

そんな状況が限界を迎えたのかもしれない。


「……嫌いに、なった?」

「っ、」


至近距離で視線を交わしたままそっと訊ねてみれば、それまで戸惑いの表情を浮かべていた新八さんの眼差しは途端に真剣なものになり。


「嫌いになるわけねぇだろ!」


言うと同時に私の腕を掴んでいた力が強まり、彼の勢いに圧された私の身体の重心は後ろへと移動して均衡を崩し、膝立ちから正座する格好になった私の両手は自然と彼の頬から離れてしまう。

行き場を失くして彷徨った両手は、結局膝の上で握り締めるに留まった。


「……でも、それなら、どうして?」

「……それは、だからその……あれだ」

「…………?」


こんな風に歯切れの悪い新八さんは珍しくて、余程言いたくない事なのだろうかとまた心が翳りを見せる。
けれどこのまま理由を聞かずに退くなんて出来なくて、だから私は黙って続く言葉を待った。


「……ユメ、前にその……した時の事、覚えてるか?」

「……前に?」


最後に身体を重ねた時、という意味ならば勿論覚えている。

あれは、漸く朝晩は涼しく、過ごしやすくなってきた頃の事だ。
その日もそんな時節の所為か店先で夕涼みをするお客さんが多く、店仕舞いの時間が少し遅れて、新八さんを待たせる事になってしまったのだ。

だから覚えていると、私は小さく頷いた。


「あん時、お前……溜め息、吐いてたろ?」


まさか何か粗相をしてしまっただろうかと思考が暗い方へと行きかけて、そんな私を引き戻したのは新八さんが言い淀みながらも発した言葉だった。

溜め息、と口の中で小さく彼の言葉を繰り返す。

それから首を傾げつつ、二月と少し前の晩に記憶を馳せてみる。

待たせてしまった新八さんはそれでも笑顔でお疲れさんと言ってくれて、その後はいつものように用意した肴で酒を飲み、当たり前のように身体を重ねて。

溜め息など、吐くような出来事があったとは思えない。

別段変わった事をした覚えは無くて、いつもと違った事といえば新八さんを待たせてしまった事と、店仕舞いが遅れたことで二人で過ごせる時間が少し短くなってしまった事くらいで。


「あっ……!」


そこまで考えて思い出した。

そう、確かにあの晩私は暗い気分になっていた。

新選組には門限があり、破れば切腹だという話は聞いていたから仕方が無いのだとは解っているけれど、それでも私は新八さんが帰ってしまう事が寂しいと、その気持ちは逢瀬を重ねる毎に強まっていて。
勿論それを口にして彼を困らせるような事はしない、けれどあの晩、情事の後に睦言も無く慌ただしく身支度を整える彼を見て、その想いが無意識のうちに溜め息となって出てしまっていたのかもしれない。


「だからその……違うの、新八さんに対してとかじゃないの。新八さんは何も悪くないの」


ごめんなさいと、決まりが悪くて目蓋を伏せて説明したけれど、新八さんからはなかなか反応が帰ってこなくて。

それが心許なくて恐る恐る目線を上げたと同時、腕を掴んでいた手が背中に回り、次の瞬間私は新八さんの腕の中に閉じ込められていた。


「新八さん……?」

「なんだよ……俺はてっきりお前に嫌われちまったのかと思って……」

「……ごめんなさい」

「いや、やっぱ悪いのは俺だ。ユメの気持ちに全然気付かねぇで……悪かった」


その言葉と同時に抱き締める腕の力が強まって、私は両手を伸ばして彼の背中にしがみ付きながら、小さく首を横に振った。


「私達、お互いに同じように不安になってたんだね」

「ま、杞憂だったけどな」


顔を上げれば新八さんの空色の瞳とかち合って、二人同時に笑い出す。

一頻り笑い合って再び視線を交わし、それが合図だったかのように互いの唇が重なった。
次第に深くなる口付けに眩暈すら感じ始めた頃、壊れ物を扱うように畳に組み敷かれて、まるでこの夜が初めてかのように胸が高鳴っている私がいた。


「あ、新、八さ……」

「悪い、久々だから加減出来ねぇかも」


苦笑しながらも切迫したような新八さんの表情に胸の奥が締め付けられて、私は構わないという返事の代わりに彼の着物を強く握り締めた。



漂う吐息のもつれに




私の肌の上を忙しなく這う手は熱く、そこから新八さんの想いが流れ込んでくるような錯覚を起こして、けれどそう言ったら錯覚じゃねぇよって、あの大好きな笑顔で笑われてしまった。


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