一番変わったのは目をあまり合わせてくれなくなったことだ、数回だけどあからさまに逸らされたこともあった。 勉強だけは相変わらずこうして教えてくれるけれど、責任感の強い彼のことだから自分から教えると言い出した手前止めにしようとは言えなかったのかも知れない。 斎藤くんだって男の子だ、無駄なことだと解っていても生理現象はどうすることも出来ない。 そんなこと思いたくないけれど、クラスの男子が言ってたっけ、生理的に無理じゃなければ誰とでも出来ると。 ぶっちゃけブスでもスタイルが良かったら顔にタオル巻いたら全然イケる、そんなことまで言った奴がいた。 男の子は何て残酷なんだとあまりのショックで放心したのを覚えている、もしかしたら斎藤くんもお手軽に済ませてしまったのかもしれない。 そんなことは絶対にないと思っていた、斎藤くんに限ってありえないと。 だけど斎藤くんだって普通の男の子で、生理現象がないなんてただの不能だ。 エッチを無駄なことと沖田くんに言ったときは不能者なのかとも一瞬疑ってしまったけれど、それは違ったのだと身を以って理解した。 あれはただの過ちだったんだ、一回限りの、そう思いたくないが為にわたしはこうやって斎藤くんを困らせているだけなのかもしれない。 考えれば考えるほど比例してなくなるのは腕の力、諦めの色が濃くなってくれば肩を抱きしめていた腕は一気にずり落ちる。 きっと人はどこかにスイッチがある、だけど斎藤くんのスイッチはわたしには見つけられないところにあって、普段は自制心という鉄壁に守られているんだ。 あの日は偶々何かあったんだ、斎藤くんはいつも忙しい身だし、大会が終わって安心感もあっただろうし、次の日は休みだったし。 だからふと気を抜いたところで偶々わたしがそのスイッチに触れてしまっただけなんだ、きっとそう。 「でも、見つからないや。わたしには見つけられない」 ほんの少し擦れた声、どんなに小さくても近しいこの距離では彼の耳に届いたはずだ。 言うと同時に離したのは両の腕、離したというより脱力して離れたという方がきっと正しい。 それでもまだ触れていたいとずるずると未練たらしく斎藤くんの腕に指を引っ掛けて、だけど泣くのだけは必死に堪えた。 ここで泣くのは卑怯以外の何者でもない。 「だから…スイッチなどないと最初から言っているだろう」 「…うん、でもね、」 あると信じてた、それはわたしでも見つけられるものだと信じてた、馬鹿みたいだけれど思い続ければいつかは、って信じてた。 じゃないと片思いなんてやってられないの、言い終わる頃には涙が目にいっぱい溢れていて決壊寸前だった。 わたしは卑怯だ、勝手なこと思って勝手なことやって斎藤くんを困らせてあまつさえひとりで泣く。 だけど斎藤くんだって悪いんだよ、何も言わずあんなに優しく抱かれれば誰だって期待するでしょう? だからせめて今だけでも困らせることくらい許して欲しいの、そうまた勝手にこじつけてわたしは斎藤くんの胸に顔を埋めた。 目を瞑れば簡単に大粒の涙が決壊してポタリポタリと斎藤くんの制服に染みを作っていく。 シン、としている部屋の中ではその涙の落ちる音さえも大きく聞こえて、だからこそしゃくり上げるなんてこと出来なかった。 斎藤くんは今、どんな顔をしているのだろうか、眉間の皺の数は一体何本になっているのだろうか。 彼が最後に言葉を発してからまだ幾分と経っては居ないけれど、わたしにしてみればもう随分と長い間放置されている気がする。 その間にも涙はどんどん溢れてくるし、振り返れば高校に入って1年半と少し、わたしの高校生活は斎藤くんしかなかったと思い出してまた涙が溢れ出る。 わたしの背中にはまだ斎藤くんの温もりがあって、どうしてこんな状態になってまでそのもどかしい体温を離さないのかと余計に寂しくなった頃。 ベッドに背を預けたままにしていた斎藤くんがゆっくりと上体を起こした気配がした。 「…すまん、佐藤……その、もう一度言ってくれ」 「……っ、ず……え?」 「だ、だから…さっき、何と?」 「……………」 「片、思い、が…どうの、と」 泣いているわたしにきっと困っている、そう思って顔を上げられずに居たわたしの耳に入ってきたのは全く予想していなかった科白。 泣き顔は可愛くないから見せたくなかった、だけどあまりにも素っ頓狂な声が聞こえてきたものだから、ついにと顔を上げてしまった。 しゃくり上げないように気をつけると鼻を啜ることも出来ず、だけど鼻水なんて涙以上に見せたくないと顔を上げて一番最初に啜ってみる。 未だにボロボロと流れ続ける涙を拭くこともしないで、ぼやけた視界で見遣った斎藤くんは何故か耳まで赤くしてわたしから視線を逸らしていて、その声ももごもごとしていて聞き取りづらい。 彼はこんなにもごもごとした喋り方をしたことがあっただろうか、いつだって静かだけど強くはっきりとした口調で堂々とした人だったはず。 仕方なしに両手で涙を一度拭うと、わたしはもう一度言ってと擦れた声で言った。 返って来たのは、つまりあんたは俺のことを好いているのかという科白、その科白を聞いた途端、わたしの涙はまたもや決壊するのだ。 「な、何でそんなことも解んないのよ、ばかぁ!」 「ばっ…あんたに好きだなどと言われた覚えはない!」 「解るでしょう?普通解るでしょう?」 「解らん!」 「好きでもないのにエッチなんかしないわよ、ばか!」 「……っ!」 むかついた、何にむかついたのかは自分でも解らない、兎に角むかついたから思い切り目を見て言ってやった。 変化があったのは斎藤くんの方だ、わたしは相変わらずボロボロと涙を流し続けているけれど斎藤くんは更に顔を真っ赤にして口を金魚の如くパクパクとさせている。 いつもの威厳ある剣道部の斎藤部長はどこへ行ってしまったのか、規律正しく無駄のない風紀委員はどこへ行ってしまったのか。 顔を真っ赤にさせたまま何も返答のない斎藤くん、今の言い合いはきっとわたしが勝ったんだ。 どうせここまで言ってしまったのならばいっそのこと、全てをぶつけてしまおうと、わたしは一度斎藤くんを睨みつけると溢れた涙を再び拭った。 わたしは斎藤くんを誤解していたかもしれない、言わなくても色々気付く人だから最初からわたしが送る好意も解っててしていたとばかり思っていたけれど、どうやら違ったらしい。 言わなきゃ解らないのだったらわたしの1年半をぶつけてやればいいんだ。 そう思って涙で水浸しになった腕を一度払って斎藤くんに向き合った瞬間、身体が前に引っ張られた。 ふわりと香る斎藤くんの匂い、頬に当たった冷たさはさっきわたしが染みを作った斎藤くんの胸許、気付けば背中も腕もみんな温かい。 少しずつ力の入る斎藤くんの腕、その力の入り加減が心地良いと感じ出すと同時に再び顔を上げたわたしの目に映ったのは何とも艶のある表情をした斎藤くんで。 ぎゅう、と締め付けられるのは身体だけじゃなくて心臓だって同じだ、その行為が嬉しくも苦しいとわたしの口からは吐息が漏れた。 「佐藤は、俺のことを、す、好いている、ということで、いいのだな?」 「……良いも悪いも、そうだって言ってるじゃない」 「お、俺は…ずっと後悔していた。俺を信頼して学びに来ていたあんたを、その…自制心が保てず、組み敷いてしまったことを」 「………え?」 「スイッチなど、ない。あるとしたら、それはここにある、」 話の途中だった、口唇が重なったのは。 あまりにも急に口付けるものだから、思わず目を瞑ることさえ出来なかったわたし、目の前には斎藤くんの長い睫毛が見えるだけ。 その口唇はほんの少しだけ震えていた気がする、あまり感じられない体温は一瞬よりも長く、一秒よりも短く交わって離れた。 それだけの出来事なのにやけに時間がゆっくりと感じたのはもっと斎藤くんを感じていたかったからだ。 何よそのもどかしいキス、こういうところ斎藤くんの悪い癖だ。 もっと深く口付けてくれればいいのに中途半端に遠慮するから、もっとしたいとわたしの身体が言うことを聞かなくなる。 思わず離れた口唇を追おうと斎藤くんのシャツを握り締めたのだけど、それよりも早く抱きすくめられ、わたしはもどかしい気持ちのまままた斎藤くんの匂いに包まれた。 この腕に抱かれることを望んで居た、だけどもっと甘いものを知ってしまえばそれに縋りたくなるのが欲深い人間というものだ。 わたしは欲深い、だから斎藤くんの腕を斎藤くんの口唇を、斎藤くんの心を、欲しがれば全部欲しくて仕方がない。 だけど、あまりにも力強くわたしを抱きしめる斎藤くんの腕からは抜け出せないと、わたしは黙ってその手中に収まっていた。 「俺の自制心を奪うスイッチは、あんたが持っている」 「…わたし?」 「どこの世界に好きな女と部屋に二人きりにされ、平常心を保てる男が居るというのだ」 「………もう1回言って?」 「……二度は言わん」 言いながら首許まで真っ赤に肌を染めた斎藤くんは、ふいとわたしからそっぽ向いた。 わたしには何度も確認させた癖にこの科白、斎藤くんは自分勝手だ。 だけどわたしも引かず、手中に収まったままじっと斎藤くんを見上げていれば、バツが悪くなったのか恥ずかしくなったのか、それとも言いたくなったのか。 観念したように一度小さく溜息を吐き出すと、わたしに向き直り、好いていると言ってくれた。 今度は嬉しくて涙が溢れて止まらなくなってしまったけれど、それはどうか許して欲しいの。 斎藤くんは無駄のない人だ、言動も行動のひとつひとつさえ。 その行為が無駄なことと言ったのを覚えてる?と聞いてみたら、あんたと過ごす時間の全ては無駄ではないと笑って言った。 わたしは自分の気持ちに嘘を吐くことが出来ないのではっきり言うよ、わたしは今世界で一番幸せな人間だと断言する。 頬を撫でた斎藤くんの綺麗な指はやっぱり手のひらが竹刀凧でささくれている。 わたしはこの少し手触りの悪い斎藤くんの手に自分の小さな手を重ねて、幸せの余韻に目を瞑った。 アレグロ・センチメント ベッドに組み敷かれる数秒前、きっと今から人生で一番甘い時間がやってくる。 END |