長い指、形のいい爪先、骨張った甲、綺麗なとこだらけだと思えば竹刀凧だらけの手のひら。

勉強を教えてもらっているというのに、視線は彼が変わりに解いて見せてくれている数式なんかじゃなくて、すらすらと動かす手だった。



「佐藤、聞いているのか」

「うん、聞いてるよ」



嘘は吐いていない、斎藤くんが問題を解きながら言葉にして説明してくれる言葉はしっかりと聞いている。

だけど視線がどうしても目の前をちらちらと動く綺麗な手に反応してしまうのだから仕方がない。

わたしの集中力が散漫なのはいつものこと、それにきっと斎藤くんは気付いている、だからこうして数分置きに聞いているのかと問うて来るんだ。

斎藤くんに勉強を教えてもらうのはこれでもう何回目か、成績も中の下で物分りの悪いわたしだけど諦めることなく何度も解りやすいように教えてくれる斎藤くんは酷く面倒見がいいか、はたまた神様だと思う。

一通り教えてくれたあとは真隣で開きっぱなしにしている自分の勉強だって怠らない、ただ予習復習をしっかりしている分、こうしてわたしみたいにテスト前になって泣き言を言うことは全くないらしい。

そんな彼の時間を割いてわざわざ彼の家にまで押しかけてこうして勉強を教えてもらっているのだから、しっかり集中しなければいけないのは解っている。

解っているんだけど、どうしても目が指を追ってしまうのだから仕方がない。

でもそれは斎藤くんだって解っているはずだ、それが斎藤くんの所為で引き起こっていることも。



「数学は至極簡単だ、答えはひとつしかない。だから公式を覚え理解することと問題集の数をこなせば、」

「その公式が覚えられないんだけど」

「それはあんたの努力次第だろう」



言いながら、わたしのノートに伸ばされていた斎藤くんの手がすっと外され、無駄なく解かれた数式が露になった。

斎藤くんは兎に角無駄のない人で、無駄に笑わなければ無駄に言葉も発さない、その行動のひとつひとつも鮮麗されていれば解く問題の数式だって無駄がない。

言う科白の一言一言は重みがあり丁寧でやっぱり無駄がないものだから、その言葉を瞬時に選べる斎藤くんは余程頭の回転がいいんだろう。

だけどそんな斎藤くんの無駄をわたしはひとつだけ知っている、というか、経験したと言った方が言葉的には正しいかもしれない。

それが二ヶ月ほど前のアレだ、そう、アレ。

わたしはそんな二ヶ月ほど前のあの無駄を曝け出した斎藤くんに豹変するスイッチを日々探している。



「下の問題を4つ解いてみろ、俺の使った公式で全部解けるはずだ」

「うん……ねぇ、斎藤くん」

「どうした?」

「これ解けたら探したいものがあるんだけど、いい?」

「何をだ?」

「ガオースイッチ」



真隣に居る斎藤くんとの距離ははっきり言ってほんの少し腕を動かしただけでも触れることが出来る距離。

そんな近しい距離の中、チラリと横目で斎藤くんを見遣ればほんの少しだけ眉間に皺が寄るのが見えた、それが斎藤くんの意味が解らないという合図だ。

少し親しい人ならばこれだけでいつも充分だったのだろう、わたしのことも親しい人だと思ってくれているのかそのまま言葉を発さず、かち合った目と目を逸らすこともしない。

何かを言いたげにぽっかりと開けたままの口唇を覗き込めば、思い出してしまうのはあの情事。

あの時、何で斎藤くんはわたしに口唇を重ねたのか、そのきっかけは何だったのか、どんなに頑張って思い出そうとしても何も引っ掛からなかった。

その骨張った綺麗な手でわたしの身体を何度もなぞり、苦しいほどに抱きしめた腕は今も隣で触れそうな距離にある。

だけど雰囲気で解るの、今は喩え触れ合ったとしてもその腕の中に収まることはないのだと。

口唇を見遣れば思い出してしまう、あの柔らかい感触と時折聞かせた果敢なげな息遣いを。

肩を見遣れば思い出してしまう、あの日、わたしはその肩に縋り付いて何度も彼の背中を抱きしめ返したことを。

腕を見遣れば思い出してしまう、どこにそんな力があるのだろうと感心してしまうほど力強く抱きしめられたことを。

その指はわたしも知らないわたしの良いところを何度も弄び、撫でられた身体は竹刀凧の少しだけささくれた感触をまだ残している。

触れたいの、触れて欲しいの、どうかまたあの日のように。

だけど斎藤くんは何事もなかったかのようにわたしに接してくるし、あの日放った独特の雰囲気も色気も今では微塵も窺えない。

きっと何かが重なっただけなのかもしれない、だけど、わたしは斎藤くんのどこかにあるだろうスイッチを探したくて仕方がなかった。



「知らない?ガオースイッチ」

「………聞き覚えがない。俺の部屋にあるのか?」

「ううん、斎藤くんに付いてるんだよ」



わたしの言葉を理解すると同時に今度は新しい皺を眉間に増やす、見る限り3本はある。

解らない、全然解らないという顔、斎藤くんのその顔が実は凄く好きなんだよと言ってみたら皺の数は一体どれほどになるのだろうか。

何度か視線を宙に彷徨わせ考える素振りをしたけれどやっぱり解らないのか、もう一度わたしと目を合わせた斎藤くん。

だけど意地悪なわたしはすぐに目を逸らしてやった、ダメ、まだ教えてあげない。

わたしがこの二ヶ月どんなもやもやした思いであなたを見ていたか、接していたかなんて知らないでしょ?問題を解き終わる間くらい少しはわたしのことで悩めばいいんだ。

視線を問題集に戻した瞬間、ほんの微かに斎藤くんがわたしの方に動いた気がしたけれど無視。

そのままシャーペンを持って問題集に触れれば、人に迷惑を掛けない斎藤くんは無駄口を絶対きかない。

静かな部屋の中でわたしが奏でるカリカリという文字を綴る音だけが耳に馴染む頃、問題を解き始めてしまったわたしからは暫く回答は望めないと仕方がなさそうに、だけど観念したように静かに肩を落としていた。

いつもだったら無駄な時間がないようにわたしが問題を解いている間、彼は自分の勉強に勤しんでいる。

明々後日の月曜日からテストだから今日はテスト勉強をしているのだけど流石は斎藤くん、やっているのは2日目の日本史の暗記問題だ。

1日目の数学U、現文、英文なんてのはもうやる必要なんてないのだろう、そりゃそうだ、暗記問題以外は予習復習が兎に角物を言う、そんなの解ってる。

教えてもらったように解けば1問目、2問目とスラスラと解け、実はわたし読解力あるんじゃないかと自惚れそうになるけれど、それは全部斎藤くんのお陰。

前回のテストで全体の平均が20点も上がったのには担任までもがびっくりしてどんなカンニングをしたんだと疑われたくらいだ。

数学と英語においては赤点ギリギリだったのが突然70点台を叩き出したんだ、そりゃあ疑われても仕方がない。

そんなわたしの救世主・斎藤くんにこんな意地悪するなんてわたしはきっとバチが当たるだろう、そんなことは解っている。

元々斎藤くんとは1年生のときから同じクラスで剣道部でも一緒だったから2年になる頃には結構他の子よりは親しくなっていた。

だけどこんな風に彼の家にお邪魔して勉強を教えて貰うようになったのは本当にここ3ヶ月程度の話。

わたしは斎藤くんのことが1年の頃から好きだった、後から理由なんていくらでも付けることは出来るけれど、たぶん一目惚れだったと思う。

気になって気になって気になって、気付いたら彼の所属する剣道部のマネージャーに名乗りを上げていたんだ。

同じクラスなのに全然喋ることも出来なくて、だから部活で初めて話しかけて貰えた日はスキップ交じりで家に帰ったっけ、懐かしい。

夏休みに合宿で一週間泊まったときも、強化月間で早朝ランニングをして朝5時に出かけたときも、都大会、関東大会、全国大会の所為でテストが期間中に受けれなかったときも。

全部斎藤くんと一緒で凄く嬉しかったのを覚えている、気付いたらどうしようもなく好きになっていたというお決まりのパターンだ。

そんなわたしに事件が起こったのは丁度3ヶ月前の夏休み明けの模試のことだった。

部活に明け暮れていたわたしの成績は見るも無残な数字となってペラペラな紙切れに印字されていて、担任から部活を辞めろと言われたのが全ての始まり。

部活を辞めたら斎藤くんと話す機会が減っちゃうじゃないと必死になって勉強することにしたんだけど、如何せん元々成績の良くないわたしはひとりで途方に暮れていたっけ。

嫌なことがあると途端に顔に出るのはわたしの悪い癖、だけどその癖のお陰で斎藤くんが気に掛けてくれたのが相談するきっかけになった。

成績が著しく下がったこと、担任に部活を辞めろと言われたこと、部活は楽しいから辞めたくないこと、とりあえず思いつくままに言葉に出してみた。

勿論、あなたが好きで剣道部を辞めたくないです、なんてそんな本音は言ってない。

そしたら彼は言ってくれたんだ、関東大会を前にして今あんたに辞められると大変なのは部だ、結果を出してやれるかは解らないが勉強なら俺がみよう、と。

わたしは自分の気持ちに嘘を吐くことが出来ないのではっきり言おう、部活を辞めろと言ってわたしを苦しめた先生に感謝した。

勿論、どれほど成績が悪くなったか見せろと順位表の提示を求められたときはあまりの悪さに見せたくないと心底破り捨てたくなったが、彼はさして笑いもしなかった。

笑わないでねと言って成績表を渡したのはわたし、その数秒後、夥しく浮かび上がった眉間の皺と共に返ってきた言葉は笑えないという一言だったのだけど。

何が嬉しくて好きな人に12教科中赤点が2つ、その他に40点以下が4つもある成績表を見せなければならないのか、情けなさに顔が上げられなかったのを覚えている。

冒頭でも言ったとおり斎藤くんは頭がいい、学校で剣道をしている以外にも市の居合い道場に週2回通っている、よっぽど彼は剣術が好きなんだろう。

他にも風紀委員に所属していて、大会前以外は毎朝誰よりも早く学校に来て暑い日も寒い日も校門に立っていた。

そんな忙しそうな斎藤くんの成績はいつだって学年トップだ、全国模試でもかなりいい点数を取っているらしいし先生方の信頼も分厚い。

勉強を教えてもらうのにこれ以上の人は居ないだろう、わたしは死に物狂いで頑張ろうと決めたのだ。

最初は市立図書館で勉強を教えてもらっていたのだけど、学校の近くの市立図書館は7時半には閉館してしまう。

部活が早く終わったとしても帰れるのは精々6時前、1時間半じゃあ特に教わることもなく終了してしまうと斎藤くんに連れ出されたのは願ってもいない彼の家だった。

あまりの嬉しさに最初は緊張しすぎて全く身になんてならなかったけれど結局は慣れるのが人間で、週3日、彼の家で彼の部屋で遅ければ夜10時頃まで一緒に居るようになれば自然と肩の強張りも取れていた。

本当は風紀委員的には夜10時以降出歩くのは如何なものかと思っているらしいのだけど、これは一応、わたし専用の私塾のようなものだ。

そこに加えて斎藤くんの家とわたしの家は比較的近い、だから10時で終えると斎藤くんが自転車の荷台にわたしを乗せて家まで送ってくれるという何とも至れ尽くせりな私塾。

実はそんなことはないのだけど荷台は怖いと嘯いて彼の腰に後ろから手を回すわたしはあざといだろうか。

怖かったら捕まっていろと言うっきり、わたしが抱きついたところで振り向きもしない斎藤くんの広い背中、このときだけはわたしのもの。

背中に顔をそっとすり寄せてみたりなんかして、こんな幸せわたし以外の誰にも教えてあげたくない、わたしだけの秘密の時間。

斎藤くんが何も言わないのを言いことにやりたい放題だ、わたしは。

だけどひとり盛り上がっているそんなわたしとは対照的に、いつだって斎藤くんは変わらなかった。

いつもと変わらない接し方、丁寧で無駄のない行動と言動。

勉強を教えてもらって一週間くらい経った頃、わたしはお礼に彼にお菓子を焼いて持って行った、そのときあなたは言ったね。

あんたに勉強を教えるのは部の大事なときにマネージャーがいなくなっては困るからだ、部長として当然のことをしたまでのこと、お礼を言われるほどのものではない、と。

あまりにも当たり前に淡々と言うものだからわたしは苦笑いしか浮かべることが出来なかった、そしてどこかで悟ったんだ。

わたしは彼にとっての恋愛対象にはなれないのかもしれない、と。

わたしはただの剣道部のマネージャーで、クラスメイトで、こうして良くしてくれているのも特別でも何でもないのだと、少し心の片隅であなたを思うことを諦めかけていた。





だからあの日、何の前触れもなく何のきっかけもなく突然、斎藤くんがわたしに口唇を重ねて来たことが理解出来なかったんだ。





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