湯呑みの残りを一気に呷った呉葉は、一息吐いてから膳を持ち上げ廊下に出た。
何気なく空を見上げればそこは見事な青で、掛かった薄い雲が緩やかに流れている。

穏やかだ、と呉葉は思う。
しかし穏やかばかりが良い事とは限らない。

カタカタと音を立てる食器に視線を戻し、炊事場へと続く廊下を折れたところで正面から向かってくる人物に気付き、足を止め笑みを浮かべた。


「天霧さん。お早うございます」


しかし呉葉に気付いた天霧は眉を顰め、黙ったまま近付くと半ば無理矢理その手から膳を奪ってしまう。


「貴方は大事な客人です。このような事をされては困ります」

「でも……暇だったんだからいいじゃない」


天霧は呉葉の言い分を聞かず背を向けて歩き出す。
手持ち無沙汰になってしまった
呉葉は部屋に戻る気分になれず、炊事場に向かうのであろう天霧の後を追った。


「……怒ってる?」

「どちらかといえば呆れています」


そうは見えない無表情のまま膳を片付けていく。
呉葉も手を出そうとしたが、それもまた天霧の鋭い一瞥により制止されてしまった。
自室へ向かうところだったらしい天霧はまた廊下へと戻る。
その背は何も言わないが天霧の意識が自分に向かっている事は感じ取れたので、呉葉はそれを勝手に了承の意と取り一緒に入っていく。
文机に向かったその背を眺めるように腰を下ろせば、一度持ち上げた筆が溜め息と共に静かに下ろされた。


「……お暇、なのですね」

「だからずっとそう言ってるじゃない」


そうじゃなかったとしても自分が食べたものくらい自分で片付ける、と拗ねたように言う呉葉に、天霧は再度大袈裟に溜め息を吐いてみせる。


「……分かりました。少々お待ち下さい」


そのまま部屋を出ていき、直ぐに戻ってきたその手に乗せられた木製の盤を見て、呉葉の目が途端に輝きを見せる。


「今度は何の遊び?」

「囲碁はあまりお気に召さなかったようですので、将棋を用意してみました」

「将棋?」


興味津津の呉葉に駒を用意する天霧が簡単に説明してみせると、だが盤を挟んだその顔はみるみる曇っていく。
表情がよく変わり、実に解り易い人だ、と天霧は内心思う。


「それって象棋みたいなもの?」

「そのようなものは聞いた事がありませんが…大陸にも似たようなものがあるのでしょうか」

「うん、多分。ちょっと苦手なんだよね。頭使って戦略練ったりとか。出来ればもっと気軽に遊べるものの方が……」


えへへ、と笑って申し訳なさそうに見上げる呉葉に、まるでそう言われる事を予期していたかのように天霧は直ぐに小さな箱を差し出した。


「花札、というものです」

「それはどうやって遊ぶの?」


札の組み合わせ、そしてこいこいという遊び方の説明を聞き、それならやってみたいと手を叩いた呉葉に、だが今度は天霧が申し訳なさそうな表情を浮かべた。
その意味に気付いた呉葉は落胆の色を見せる。


「もしかして、出掛ける時間?」

「ええ、すみませんが」

「いいの、これを用意して貰えただけで十分だから。練習しておくから、また今度相手してね」


天霧は何か言いたげに見えたが、呉葉は素早く立ち上がると小箱を持ち自分に宛がわれている部屋へと戻った。
小箱の中には説明書きの用紙が畳んで添付されており、暫くはその紙と並べた札を睨んでいた呉葉がだったが、半刻もしないうちにそれらを投げ出し畳に寝転んでいた。

この屋敷に来てからもう一月近くが経とうとしている。
呉葉はてっきりこの国の鬼達も自分達と同じように人間から離れて暮らしているものと思っていたが、どうやらそうではないらしく風間も天霧も何かと忙しそうにしている。
実際風間はあの日以来手を出してくる事は無かったが、そもそも顔を合わせる回数すら少なかった。
食事は一緒にとれと言われているが、風間の不在によりそれすら数えるほどしかない。
そうなると自然と、どちらかといえば屋敷に居る時間が長い天霧と顔を合わせる事の方が多かった。
天霧はやや寡黙なところはあるが穏やかで呉葉が思っていた以上に話しやすく、だからそれならそれで一向に構わなかったが、それでも天霧が少ない時間を自分に割いてくれている事に呉葉は気付いていた。
だからあまり我儘は言わないよう留意してはいたが、ただ決して外には出るなと厳命されている呉葉は退屈ばかりを持て余していた。

畳の上で寝返りを打ち、ぼんやりと着物やら小物やらが増えた部屋を見渡す。
それは呉葉が望んだものではなく、いつの間にか少しずつ与えられていったものだ。
それも呉葉に息苦しさを感じさせる一因となっていた。
衣食住には困らないどころか、かなり良くして貰っているという自覚はあった。
だが呉葉はただ与えられるだけという環境が嫌で、だから自分も何か屋敷の事を手伝いたいと何度も申し出たが、しかしその度に返ってくる言葉は客人だから、というその一言で。
心に充満する息苦しさと疎外感に、呉葉は退屈以上の辛さを感じていた。

それもこれも、全部風間の所為だ。
自分を妻にするなどと言っておいて、結局は放ったらかしのままじゃないか。

そうして最終的には風間に半ば八つ当たりのような憤りを感じ、それをどうする事も出来ないまま呉葉に睡魔が擦り寄ってくる。

あぁ、このままではまた転寝してしまうと思う呉葉だが、結局は抗う事なくそのまま眠りに落ちていった。




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