その日は明け方から雪が降っていた。

昼前に一度は止んだものの午後からまた降り出し積もったそれは、日暮れ前には辺りを白一色に染め上げていた。


「次第を、尋ねらるゝに、耳を……」


火鉢に火が入っている室内は十分暖かいが、それでもまだ足りないとばかりに掻巻に包まる呉葉は、本を広げて行灯の傍らに寝転がっていた。
羅列する文字を追う事に集中しており、だから閉じた襖の向こうに立つ気配にも気が付かない。

漸く顔を上げたのは、襖を開けた風間が声を掛けてからの事だった。


「随分と没頭しているようだな」

「……あ、お帰りなさい」


風間は暖まった空気を逃がさないようすぐに襖を戻し、部屋を横切り呉葉の側へと近付いていく。
帰宅して真っ直ぐこの部屋にやってきたのか、風間が纏う空気だけがひんやりと冷たい。

呉葉がもそもそと起き上がると同時、傍らに腰を下ろした風間の目線と正面からかち合って、突如胸の辺りがざわりと疼く感覚に襲われた呉葉はそこに右手を押し当てた。


「何の話だ?」

「え?えっと、怪談かな?耳を取られた人の話」


小難しいものよりもこういう話の方が好きだと言いながら呉葉がずり落ちた掻巻を背中から被り直すと、そんな呉葉に風間が笑みを零す。


「何?寒いんだから仕方ないじゃない」

「まだ何も言っていないが?」

「……この国がこんなに寒いなんて知らなかった」

「いや、今年は特別冷えているな」


そうなんだ、と襖に視線を移したところで外は窺えないのだが、今も表では雪が絶え間なく降り続いているのだろう。

見れば、風間の肩が僅かに濡れている。


「そういえば、今日は随分早いのね」


風間は相変わらず多忙なようで留守にしている事が多かったが、それでも先日の苦情が効いたのか、比較的早い時間に帰宅した時にはこうして呉葉の部屋に顔を出すようになっていた。

それにしても今はまだ日が暮れて間もない時刻で、ここまで早い時間に風間が帰ってくるなど滅多にない事だった。


「あぁ。渡すものがあったからな」

「渡すもの?」


そう言って風間が懐から取り出したのは小さな巾着のようなもので、差し出されたそれを呉葉は受け皿のように揃えた両手で受け取る。


「匂い袋……?」


手の平に収まってしまう程の大きさのそれは、鼻先に近付けてみると白檀の甘い香りを仄かに漂わせる。

だがそれを渡される意味が解らず首を傾げる呉葉に、風間は枕元に置いておけとだけ告げた。


「枕元?………あ」


あれからも数日置きに呉葉を苛ませていた悪夢、それから目覚めた時に鼻の奥にいつまでも残って離れない血臭、確かにこれがあれば多少はそれが軽減されるかもしれない。
或いは、悪夢そのものを見ずに済むかもしれない。

気に留めていてくれたのだと、呉葉の頬が思わず緩む。


「気休めにしかならんだろうがな」

「……ううん。ありがとう」


そんな呉葉の素直な言葉につられるように風間が笑みを浮かべれば、まただ、と呉葉は胸元に手を運んだ。

近頃風間と居る時によく感じる、胸の奥の違和感。
それはこうして胸に触れてみたところで普段と違う何かを感じ取る事は出来ないのだが、それでも確かにそこに存在する感情。

その感情の正体に頭のどこかで薄々気が付いている呉葉だが、それでも尚それに気付かない振りをして目を逸らす。


「……さて。俺はそろそろ行くぞ」

「え?また出掛けるの?」

「人間共と飲む酒など不味くて気が進まんが、そういうわけにもいかないのでな」


言いながら立ち上がった風間を視線で追い掛ける呉葉の、それまで浮上していた気持ちが見る間に沈んでいく。
自身で制御しきれない感情がもどかしくて、けれどそれを扱う術を知らない呉葉はただ俯く事しか出来ない。

そんな呉葉の姿を目にした風間は、踏み出しかけた足を止めると眼下にある呉葉の髪にそっと触れた。
そのしなやかな指先に誘われるように顔を上げた呉葉は、しかしその行動をすぐに後悔する。

そこに在った風間の緋の両目には、どこか愉しげな色が浮かんでいたからだ。

それはまるで風間が出掛けてしまう事を嬉しく思っていないと見透かされているかのようで、呉葉は紅潮する頬を隠すように眉を顰めて唇を歪めた。


「……そんなに留守にするならあたし、浮気でもしようかな」


このまま風間の思い通りにさせたままでは悔しいと、そう思っての発言だった。
事実、その言葉を耳にした風間の目が見開かれ、呉葉はしてやったりと優越感に浸る。

だがそれも一瞬の事で、面喰っていた筈の風間の口元は直後には綺麗な弧を描いていた。


「それはつまり、お前が俺のものだという自覚があるという事か?」


心底可笑しそうに返す風間に今度は呉葉が目を瞠り、そして呉葉の熱は顔ばかりか全身にまで駆け巡っていく。
それから自分の言った科白を思い返し、違うと否定してみせようとするが巧い言い訳が見つからない。

そのうちに呉葉の結い上げていない髪をくるくると弄んでいた指先が離れ、次の瞬間に両脇を掬われた呉葉は、抗う間もなく風間の腕の中に捕われていた。

掻巻が床に落ちるが、背中と腰に回された風間の手の温もりは呉葉に寒さを感じさせない。
それと同時に、風間の胸に両手を押しつけ離れようとする呉葉の動きを妨げるほど力強かった。


「ちょっ、放して…!」


だが呉葉の抵抗など意に介さない風間が腕に力を込め、それによって二人の僅かな距離すらも埋められる。

それからこれ以上赤くなった顔を見られまいと背ける呉葉の耳元に唇を寄せ、風間は好きにしろと囁いた。


「それでもお前は俺を選ぶだろう?」


鼓膜に直接響く低音、それは呉葉の脳を攪拌するように駆け巡りその動きを止めさせた。

煩いほどに速度を上げて高鳴る心臓はどれほど落ち着かせようとしても言う事を聞かない。

今や呉葉の自由になるのはその両目だけで、暫くは風間の肩越しに見える壁や襖にそれを彷徨わせていたが、それすらも意を決して見上げた風間の眼差しに射抜かれて容易に捕えられてしまう。


「かざ、」

「黙っていろ」


次第に降りてくる風間の顔、その先に何が待つかなど解りきっていて、だが呉葉はそれを受け入れるようにゆっくりと瞼を閉じる。

そして互いの唇が触れ合った瞬間、胸の中で燻っているこの感情から逃げ出す事などもう出来ないのだと強く思い知らされた呉葉は、風間に与えられる口付けに静かに酔い痴れるのだった。





光彩陸離 終/
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