「それで?」

「え?」


短い問い掛けに誘われるように顔を上げれば既に真顔に戻った風間は再び徳利を傾けていて、なみなみと注がれた猪口の表面がゆらゆらと揺れている。

それで、何なのだろうと小首を傾げる呉葉に、風間の眉が呆れたように歪められた。


「訊きたい事があるのではないのか?」

「……あぁ、うん」


そうだった、と忘れかけていた本来の目的を思い出す呉葉だが、同時に先刻の件の回答を得られていない事も思い出す。
だが先程の風間の様子では説明を求めても無駄だろう。
怖い思いをした事も悪夢にうなされる事も、すべては自分が勝手に屋敷を抜け出した事が原因であり、それを指摘されてしまえば何も言えなくなってしまう。
そしてこれ以上この件を口にすれば、そう指摘されてしまうのも時間の問題だと悟っていた呉葉は諦めの嘆息を吐く外なかった。


「それじゃあ訊くけど。あたしは留守番をさせられる為にこの屋敷に連れてこられたの?」


それを聞いた風間は猪口を口に運んでいた動きを止め、怪訝な色を浮かべた瞳を呉葉に向ける。

それからその口が言葉を発する為に動いた刹那、だがそれを遮るように呉葉が先に口を開いた。


「嫁にするとか何とか言ってるけどね、普通は嫁にしたいと思ってる女をこうも放っておいたりしないんじゃないの?」


元々留守がちだった風間だが、この十数日間、呉葉に部屋で待っていろと告げたあの晩から今日まで、風間は一度も呉葉の前に姿を現していなかった。
そしてそれは天霧も同様だった。

ここまで間が空いた事は初めてで、気になった呉葉が一度屋敷の者に訊いてみたところ、風間と天霧の二人は以前にも増して忙しくしているのだという。
だがその間一度も帰っていないわけではなく、呉葉が床に就くよりも遅い時間に帰宅し、そして朝は早い時間に屋敷を出ていると聞いたのだが、呉葉にとって風間の帰宅時間など大した問題ではなかった。

一体自分は何の為に故郷から連れ去られたのだと、ただ自分をこの屋敷に据え置く為だったのかと、風間の真意が見えない呉葉は日毎に苛立ちを募らせていた。


「理解出来ない、風間のやり方は。あたしを人形か何かと勘違いしてるんじゃない?そもそもどうしてそんなに忙しいの?今だけって言うけど何時までかかるの?」


一気に捲し立てた呉葉はふぅと息を吐くと、きっとまた風間は寂しがっているだとか言い出すのだろうと素早く身構える。

だが予想に反して黙ったままの風間は、右手の猪口を漸く口に付けて中身を空けると立てた膝の上に腕を乗せ、指先で猪口を弄びながら遠くへと視線を投げた。


「今この国の人間は、時代の節目に立っている」

「……それで忙しいの?前から訊こうと思ってたんだけど、この国の鬼は人間と関わりを持って暮らしてるの?」

「今回は特別だ。普段はそのような事はしない。だから今は外へ出向く事が多いが、それもじきになくなる」

「時代が、変わるの?」

「あぁ。あの紛い物共も、この混迷の時代に生まれた哀れな産物だ」

「紛い物……?」


聞き慣れない単語に呉葉が首を捻ると、お前を襲った奴等だと説明が返ってくる。

一度見ただけの京の町だが、傍目にはごく平和な町のように呉葉には感じられた。
だが実際にあのような血に飢えた者が存在するこの国は、確かに尋常ならざる時勢の中にいるのだろうとどこか納得した。

時代が変わるとなれば、当然戦も起きているのだろう。


「俺は全てを見届ける。それまではあまり構ってやれんが、少し我慢していろ」


別に構って欲しいわけじゃないといつものように反論しようとした呉葉だが、その時向けられた風間の瞳は意外なほどに優しいもので、無意識のうちに小さく頷いてしまっていた。


「…………」

「そういえば、天霧が書物を渡したと言っていたが?」

「……え?」


素直に頷いてしまった自身に内心で戸惑っていた呉葉は心の中の不明瞭な感情を振り払うと、酒興を再開した風間の問い掛けに、あぁ、と小さく声を漏らす。


「うん。読本と、昔の説話集なんかを持ってきてくれたんだけど……」

「気に入らなかったのか?」

「じゃなくて。あのね、言いにくいんだけど、あたしがこの国の言葉、話せはするけど読み書きは得意じゃないって事、忘れてない?」


呉葉の里で日常の会話で使われている言葉は、一族が昔に住んでいた土地、つまりこの国のものだった。
だが読み書きとなると、要り用で集落の外へ出た際に不便があっては困るので向こうの言葉ばかりを重点的に覚えさせられていた。
勿論簡単なものならばこの国の言葉も読める、だがそれは一冊の書物を読む為には到底事足りるものではない。

その事は二人にも話してあった筈だけれど、と呉葉は拗ねたように唇を尖らせる。


「天霧さんて、時々気が利くんだか利かないんだか判らない時があるよね」


思えば花札の時もそうだった。
渡された説明書きは結局半刻もせずにそれを投げ出してしまったのだ。
それでも半刻近くは奮闘したのだから偉い、と呉葉は思う。

読本に至っては、一頁も読み切る事なく諦めてしまったのだから。

正直もう少し読めるものと呉葉は見縊っていた。
だがそもそも文語と口語では大きく違う。
そして癖のある独特の文体に、呉葉は読書を早々に断念したのだった。


「少し勉強しようかな……どうせまだ忙しいんでしょう?」

「そうだな。そのつもりならば用意させる」


そう交わした言葉を最後に、室内には沈黙が訪れる。

呉葉は風間が忙しくしている理由には納得したが、自身の境遇にはまだ納得出来ていない。

それでももうこれ以上問い詰める気が削がれてしまっていた呉葉は、何も言わずに膝を畳に擦らせてじりじりと風間との距離を詰めた。

そして盆の上に残されていた猪口を手に取り、黙ってその様子を眺めていた風間の前に重ねた両手を突き出す。


「俺に酌をしろと?」

「うん」

「……いい度胸だな」


僅かに細められたその両目に機嫌を損ねさせてしまったかと一瞬怯んだ呉葉だが、風間は意外にも薄らと笑みを浮かべると徳利を持ち上げた。

そうして満たされた杯の中身に呉葉は軽く口を付け、味を確かめるように濡れた唇を舐めてから一気に飲み干し、今度は風間に返盃する。


「飲めるのか」

「まぁ、少しだけ」


少しだけ、と言いながらも既に二杯目を求めて両手を差し出している呉葉に、風間は思わず苦笑に近い笑みを零していた。

呉葉は下戸ではない、だが特に酒が好きだというわけでもなく、だからこれまでそう頻繁に口にする事は無かった。
実際この屋敷に来てからも酒を所望した事は無い。

それでも呉葉が自らそれを求めたのは、酔ってしまえば夢も見ないほど深く眠れるかもしれないという思惑からだ。
それに酒が入った呉葉の身体は既に眠気を訴えており、この分なら布団に入ればすぐにでも眠れそうで、ここ暫くまた悪夢を見るのではないかと思うとなかなか寝付けずにいた呉葉にとってそれは大きな魅力だった。

安眠を求めて杯を重ねる呉葉は、しかしこの後布団まで辿り着く事無く風間に身体を預けて眠ってしまう事になる。

そうして翌朝風間の腕の中で目を覚ました呉葉は、別の意味での悲鳴を上げるのだった。




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