その晩、夜着姿で布団に入ろうとしていた呉葉は不意に物音を聞き付けて動きを止めた。

静かに襖を開けてそれが玄関の方向から聞こえてくる事を確認し、素早く羽織を肩に掛けて内廊下に出ると、呉葉の体温を冷えた空気と床板が奪っていく。

そうして足を進めれば呉葉が予想していた通り、突き当たりの角から風間が姿を現した。
その両目が意外そうにほんの少しだけ見開かれ、だがすぐに元に戻る。


「……何だ、まだ起きていたのか」

「お久し振り」

「それは厭味のつもりか?」

「解ってるなら訊かないで」


腕を組んでむくれた様子の呉葉に対し風間は一つ笑うと、二人が立っているすぐ真横、風間の自室の襖を滑らせ中へと足を踏み入れた。

許可を得る事も無く当然のように黙ってその後に続く呉葉に、風間は一度だけ振り返り物言いたげな視線を向ける。


「色々と訊きたい事があるの。いいでしょう?」


言葉は疑問形だが否と言わせるつもりは無い呉葉は、そのまま返答を待たずに襖を閉めた。
風間の部屋は予め火鉢が用意されていたようで、その暖かさに知らず力が入っていた呉葉の肩が脱力していく。

それから一歩ほど動いた位置に膝を着き、だが羽織りを脱いだ風間が帯に手を掛けると慌ててくるりと背を向ける。
そんな呉葉の背中越し、帯を解く音に重なって届いたのは、言ってみろ、とどこか笑いを含んだ声。


「……まずね、この前のあれ、何だったのか説明して貰おうと思って」

「この前?……あぁ、お前の部屋に行かなかった事か?あの晩は急用で呼び出されてな」

「違っ、そうじゃなくて、」

「待っていたのならそうと早く言えば良かったものを」

「待ってないし、違うってば!」


声を荒げ、本当ならば風間を睨み付けたいところだがそうは出来ない呉葉は目の前の襖を睨むしかない。
部屋の奥からは喉を鳴らすような笑い声が聞こえていて、揶揄われたのだと悟り大きく咳払いを落とす。


「……そうじゃなくて、あの……京の町で」


言い淀んだのはその時の記憶を呼び覚ましたくないからで。
だがそれでも、あの晩の出来事は呉葉の脳裏に深く刻まれていた。


「あれはお前には関係の無い事だ。忘れろ」

「同じ事を天霧さんにも言われた。けど、忘れられるわけないじゃない、あんな……」


あれから十日以上が経っていたが、今でもふとした時に思考を襲う、あの瞳、あの狂気、そして死を覚悟した瞬間の背筋が凍りつく感覚。

あの三人が普通の人間とは呉葉には到底思えなかった。
だが自分達と同じ鬼であるともまた思えない。

あの時の恐怖は忘れようとしても簡単に忘れられるものではないが、それでも彼らが呉葉の中で不可解なものとして認識されているよりも、何者であるかを知れば少しでもその恐怖は薄れるのではないかと考えていた。

だがそれすらも与えられないのかと、呉葉は静かに目を伏せる。


「……夢を、見るの」


あの晩の記憶は何も呉葉が起きている時だけに甦るわけではなかった。

小さく呟いた呉葉の言葉に背後の衣擦れの音が止み、けれどすぐに再開したそれは呉葉に先を促しているかのようだった。

悪夢はいつも同じというわけではない。

そのほとんどに共通して呉葉はあの路地に立っていて、現実のようにあの三人が倒れていたり、或いは風間が血に塗れて佇んでいたり、或いは風間が斬られ倒れてる事もある。

その内容に瑣末な違いはあったとしてもどれも視界は赤一色に染まっていて寝覚めがいいとは言えない事に変わりは無く、時には呉葉自身が斬られて目を覚ます事もあった。
そんな時呉葉は決まって自分の悲鳴で目を覚ますのだった。


「成程。よほど重症のようだな」

「っ!?」


夢の詳細を話す事に気を取られていた呉葉は、再び衣擦れの音が止んだ事に気が付けなかった。
突然すぐ背後から聞こえた声に慌てて振り向けば、そこにはいつの間に着替えを終えたのか夜着姿になった風間が立っている。


「慣れぬ者にとって血の臭いは消し難いものと言うからな」


片膝を立てて屈み込んだ風間の眉間には思い悩むように皺が浮かんでいて、まさか心配してくれているのかと呉葉は言葉に詰まる。

だがその直後、風間はその口元を綺麗に吊り上げた。


「ならば悪夢を見ないよう、共に眠るか?」


輪郭に沿って指先を滑らせながら言ったその科白に、呉葉の頬は見る間に熱を持つ。
それから唇を小刻みに震わせるが、その声は喉元につかえたまま出てこない。


「心配せずとも、妻を守るのは夫の役目だ」

「つ、妻じゃない!」


ようやく言葉を発した呉葉はそう叫んで風間から離れようとするが、それよりも風間が呉葉の二の腕を掴む方が早かった。

掴んだ腕を引き寄せて立ち上がらせると、だがあっさりとその手を放し部屋の奥へと足を向ける。


「酒を飲む。少し付き合え」


そう言って風間が腰を下ろした脇息の傍らには、主の帰宅と同時に用意されたのか徳利と猪口が盆の上に丁寧に並んでいた。

憮然とした表情のまま佇む呉葉を見遣り、それから呉葉に酌をする気がない事が解ったのか、風間は一つ溜め息を吐くと自ら手酌で酒を注いでいく。
それを見て漸く風間の斜位置に腰を据えた呉葉は、酌をする為に手を伸ばそうとするでもなく、風間の所作をただ静かに眺めていた。

風間の背後に置かれた行燈はその表情に影を浮かび上がらせ、けれど酒を飲み下す喉の動きだけは鮮明に見て取れる。
飴色の髪はこの薄明かりでは褐色のように呉葉の目に映り、それはまるで風間が見知らぬ人のような錯覚を起こさせた。

そんな呉葉の眼差しに気が付いた風間に不意に視線を向けられ、途端に我に返った呉葉は一度大きく脈打つ心臓を感じて思わず顔を背ける。


「何だ?」

「……や、別に、」


久しぶりに見たものだから、という科白が口を付いて出そうになったが、それではまるで自分が風間に会いたがっていたようではないかと、慌てて呉葉は心の中でそれを打ち消した。

そうして口籠もる呉葉の耳に、くつくつとあの嫌な笑い方が届く。


「見惚れたか?」

「っ、」


図星を指されてしまった呉葉は否定する事も視線を上げる事も出来ず、赤くなっているであろう頬の熱に気が付かないふりをして、膝の上で組んだ両手見つめていた。




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