頬に飛び散る生暖かい液体。

だが、いつまで経っても覚悟していた身体の痛みは呉葉に訪れなかった。




やがて耳に届いた呻き声と重いものが倒れる音に、呉葉は恐る恐る目を開く。

まず視界に入ったものは白い着物、その上に黒い羽織と。


「……まがい物ごときが」


その後ろ姿も低く呟く声も紛れもなく風間のもので、だが何故風間が此処に居るのだろうかと呉葉は状況が呑み込めないでいた。
風間の足元には血を流し倒れる男、更にその奥に刀を構える男が二人。
見れば、風間もまた刀を手にしていた。
見上げたその頭が、呉葉の視線を感じ取ったかのように僅かに傾けられる。


「目を閉じていろ。直ぐに済む」


それが自分に向けられた言葉だという事は解っていたが、呉葉には目を閉じるどころか瞬きをする時間も無いように感じられた。

それほどまでに風間の動きは疾く、そして二人の男達が崩れ落ちていく。

刀を振り払い鞘に収めた風間がゆっくりと呉葉に向き直る。
そこでやっと呉葉は自分が風間に助けられたのだと理解した。

風間が何か呟いたが、壊れそうなほど高ぶり鼓膜を揺らす自身の鼓動に阻まれ、それは上手く聞き取れなかった。

黙っていると風間は呉葉の正面に片膝を着き、しかし呉葉はただ俯く事しか出来ない。
感じる視線から逃れるように片手で顔に触れれば、ぬるりとした何かが指先に付着した。


「…………ごめん、なさい」


それは呉葉自身、自分でも笑ってしまえるほどか細く震えた声だった。
その謝罪が屋敷を抜け出した事に対してのものなのか、それともこの状況に対してのものなのかは呉葉自身も判らなかった。
だがどちらにせよ風間は怒っているだろう。
加えて指先のそれと周囲に充満する生臭さに、兎に角何でも構わないので言葉を発しなければ呉葉は今にも意識を手放してしまいそうだった。

やがて風間の動く気配に呉葉がびくりと反応した次の刹那、座り込んでいた筈のその身体は宙に浮いていた。


「ひっ……!」


突然の浮遊感に慌てて伸ばした両手が掴んだものは黒い羽織で、重力に従って下がろうとする上半身を持ち上げてみれば暗い地面はいつもより少し遠くて。
それから不意に振動を感じ、そこが風間の肩の上だと知り。


「ちょっと、風間……!」

「舌を噛みたくなければ黙っていろ」


言われると同時に景色が流れ出し、呉葉は言われた通り黙って風間にしがみ付くしかなかった。
京の町はあっという間に遠退いていき、あの茶屋の前を過ぎ、木々の生い茂る小道を躊躇いなく抜けていく。

風間がその足取りを緩めると、屋敷はもう目と鼻の先だった。

そろそろ降ろされるものと思っていた呉葉だが、しかし風間は呉葉を担いだままその草履を脱がせ屋敷の奥へと連れていく。

少しだけ嫌な予感が過り、その背を軽く叩いてみる。


「ねぇ、さすがにもう歩けるよ」


それでも反応が無いのでばたばたと手足を動かしてみるが、腰に回された風間の腕が緩む事はない。

程なくして風間が一枚の戸を開け、首を反らせて見えたその景色に呉葉は今度こそ本気で抵抗を始めた。


「ちょ、待って待っ」


て、と言い掛けたところでやや乱暴気味に床に放り出された呉葉は舌を噛んでしまう。

そして体勢を立て直そうと床に手を着いた瞬間、


「っぶ……!」


呉葉の頭から大量の湯が被せられ、驚きよりも突然のそれを吸い込んだ事で呉葉は幾度か噎せ返った。
湯殿に充満する湯気が余計に呼吸を浅くさせ、その両目には涙が浮かぶ。

やっと落ち着き涙を拭い、文句を言う為に勢いよく振り返り風間を睨んだ。

のだが。


「ちょ、何して……!」


帯を解き着物を肌蹴させる風間の姿に、呉葉は間髪を入れず首を戻す。
ついでに逃げ腰になったが、しとどに湯を吸い込んだ着物と、背後からの声がそれを許さなかった。


「何、だと?湯殿に居るのだから湯浴みに決まっているだろう」


早く脱げ、という科白と共に衣擦れの音が浴場に響き、熱気の所為だけでなく上がっていく体温を呉葉は感じていた。


「な、なにも一緒じゃなくたって、」

「それとも脱がせて欲しいのか?」

「脱ぎます。脱ぐからこっちに来ないで。むしろこっち向かないで!」


視線を下に向けたまま僅かに首を動かせばそこには風間の素足が見え、だがその爪先が反対側を向いている事を確認し、呉葉はおずおずと帯に手を掛けた。
その間にも後方からは水音が聞こえ、流れてくるそれが座り込む呉葉の脚と尻を濡らす。
濡れた事で解き難くなった帯を漸く落とし、腰紐も緩め、躊躇しながらも着物を脱ぎ捨てればべしゃりと重みを持った音がした。

さすがに全部を脱ぐ気にはなれず、襦袢姿のまま髪と顔を洗っていく。
血液は髪にも飛び散っていたらしく、乾いてこびり付いたそれを洗い流すにはなかなか骨が折れた。




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