はたと気が付いた時、呉葉が立っている縮緬問屋はてきぱきと店仕舞いを始めていて、店の人間と目が合った呉葉は手にしていた巾着を元の位置に戻し、自分以外に客の居ない店を後にした。
見上げた西の空は茜色に染まっており、それを見た途端に呉葉はこれは拙い、と独り焦りの色を浮かべる。

往来を見渡せば人通りは目に見えて減り、ほとんどの商家は店を閉めていて、兎に角来た道を戻らなければと踵を返す。
夢中になる内に随分な距離を歩いていたが、途中幾度か折れた角の目印は覚えていたつもりだった。
だが綺麗に区画整理された京の町は似たような辻が多く、ましてや呉葉にとっては初めての土地で、更には急がねばという焦燥感に駆られていた所為もあるのだろう。

いつしか呉葉は見知らぬ通りに出てしまっていた。

足を止め振り返ったところでそこは寸分も見覚えがなく。
戻った方が良いのか、それとも自身の方向感覚を信じて進んだ方が良いのか。
いっそ誰かに尋ねてしまおうか、だが何と尋ねたら良いものかも分からない。
鬼の棲み処はどこですか、などとはまさか訊ける筈もなく。

焦り故に呉葉の額の生え際と背中には汗が滲んでいたが、途方に暮れている時間はなかった。
そうこうしているうちに辺りにはもう宵の帳が下りようとしている。

もう屋敷では自分の不在に大騒ぎになっているかもしれない。
当然叱られるだろうし、場合によっては今後監視がつく事になってしまうかもしれない。
だがそれでもいい、無事に帰り着けるのならばそれでも良かった。

頼れる者が誰一人としていないこの国で、あの屋敷だけが今の自分の居場所なのだと呉葉は痛切に感じていた。

不安のあまり泣き出してしまいたい呉葉だったがそうもしていられず、一先ず別の通りに出ようと足を踏み出した瞬間、不意にその思考に光明が差した。

尋ね先ならば、あの茶屋があるではないか、と。

せめてあの茶屋までの道が判れば後はほとんど一本道、木々に囲まれたあの小道は想像するだけで暗く怖いだろうがそれは仕方がない。
そうと決まれば取るべき行動は一つ。

だが、顔を上げた呉葉の周囲はいつの間にか人気が無くなっていた。
とはいえ民家や店仕舞いを済ませた商家の戸を叩く勇気は呉葉には無く。
まだそれほど遅い時間ではないのだからと、通行人を求めて幾らか早足で歩を進めた。

しかし幾つ角を折れても人気は無いままで、その上知らぬ間に細い路地へと入り込んでいたらしい。
このままでは埒が明かない、更にはいくら人間より夜目が利くからとはいえ月明かりも十分に届かぬ路地では危険だと、呉葉はもう一度大きめの通りに出る為一旦引き返す事にした。


「……ここは右から来たよな」


心細さを掻き消すように小さく独り言を漏らしながら三叉路を右へと折れた呉葉だが、そこで何かが視覚に引っ掛かった気がして足を止める。

そして振り返った先、薄明かりの中ではためく浅葱色を見付けたのだ。

思わず駆け出したくなった呉葉は、しかし相手が親切な人間とは限らないと思い直し、足音を立てないよう慎重に浅葱色に近付いていく。

それは羽織のようで、呉葉に背を向けた三人組はどうやら太刀を所持しているらしい。
羽織が揃いである事からこの町の自治組織か何かだろうか、だとすればこの上ない幸運だが、それにしては提灯の一つも持たないというのもどこか不自然なように呉葉は感じた。

どうすべきかと逡巡する間にも足取りの早い男達の背は離れていき、慌ててそれを追う呉葉は自然と小走りにならざるを得ず。

足元に払う注意も疎かになっていたらしい。

ジャリ、と何かを踏んだ音に呉葉がしまったと思った時には、視線の先の三人の足はぴたりと止まっていた。

呉葉が動けずにいると、男達は緩りと身体の向きを変える。

そして、そこで見た男達の風貌に呉葉の身体は凍り付いたかのように動かなくなった。

白い髪、そして不気味に光る紅い瞳には明らかに常態にある者とは思えない色が宿されていた。

殺気、ではない。

狂気、だ。

動きたいのに、動かなきゃと思うのに身体は動いてくれず、足が竦む呉葉と近付いてくる男達の距離は直ぐに縮まっていく。

口元を歪めながら腰の刀を抜く先頭の男。

膝に力が入らないばかりか、叫びたくても喉が引き攣り声も出ない。

やがて振り上げられた刀に、呉葉は咄嗟に左腕を掲げていた。

腕に走る鋭い痛み、勢いよく流れ出る血液。
そして均衡を崩した身体はそのまま地面に尻餅を着いていた。

受け身を取る為に着いた左手が痛んだが、それでも傷は浅かったのか直ぐに痛みは和らぎ出血量も減っていく。

次の一撃に身構え顔を上げた呉葉は、しかし目の前の光景に氷水を浴びせられたかのように背筋が冷えた。

寄り添う三人の男達は、刀に付着した呉葉の鮮血を夢中で舐め取っていた。

逃げるなら今のうちと解っているのに、抜けてしまった腰は思うように立ち上がらせてはくれず。
情けないが座り込んだままじりじりと後退するしかなかった。

背後に着いた両手、次いで背中が何か硬いものに突き当たり呉葉が行き場を失くしたと同時、刀の血だけでは満足出来なかったのだろう三人の目が再度呉葉に向けられる。


「…………あ、の」


擦れた声を絞り出してはみたが、ここへ来てこの男達を説得出来る望みはほぼ皆無であろう事は明確で。
それでも呉葉が必死で喉を震わせたのは、まだこんなところで死にたくはないという悪足掻きからだった。

既に血が止まっている左腕を擦る。
運が良ければ斬られても身体の治癒が追い付き助かるかもしれない。
だが目の前の狂気に彩られた瞳を見ていると、そんな希望さえ持てなくなる。

それは毎日目にしていた紅と同じ筈なのに、どうして目の前の此れはこんなにも冷え切っているのだろうか。

背中に当たるのは、多分どこかの民家の甕か何かで。

どんなに背を押し付けても一向に動かないそれに身を寄せながら、呉葉が祈るように助けを求めた人物は、きっと両親でも天霧でもなかった。


「…………か、」


そうして再び振り上げられた刀に、
呉葉はその目をきつく閉じた。




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