色艶3

Side:Marco



バシャっと勢いよくバケツから放った水は、太陽の光を浴びて眩しい程に輝いている。
甲板の上を滑るように流れる水を、デッキブラシで馴染ませてごしごしと擦っていく。
一番隊のクルー達は、物陰からこっそりおれの様子を伺っているようだったが、もう声をかけてくる者はいない。
1時間程前に、手伝うと自分たちもブラシを手に並んでくれたんだが。
これはおれの罰だからと、強引に船内へと戻した。
戻れずにいるヤツらが、あそこから覗いてはいるんだが…。

久しぶりの、甲板掃除だった。
昔は当番制でよくやっていたものだったが。
いつの間にか、その当番に組み込まれなくなり暫く経った頃には、デッキブラシの場所ですら忘れちまっていた。
こういう罰も、浮かれている自分には丁度いい。
こうなりゃ、徹底的に掃除して綺麗にしてやるよい!
腕にぐっと力を込めて甲板にこびり付いた汚れを落としていく。
ゴシゴシと一人夢中になって擦っていると、一つの足音がこちらへ近づいてきた。


「…なんでお前も怪我してんだよ」
「オヤジからの鉄拳制裁、久しぶりに受けたよい」


額に貼ってある大きな絆創膏。
確かにど真ん中だ、気付くなという方がどうかしている。
受けたのは昨日だというのに、未だにズキズキと痛むのは愛の鞭故にだろうか。


「なんで正直に言わねェんだよ!」
「正直?バカ言え、ただの喧嘩だよい。しかもおれが一方的に殴ったんだ」
「でも…!」
「おれが一方的に殴ったんだよい、聞こえなかったのか?」


念を押すように二度目の言葉を強めると、サッチは何か言いたそうにしながらも押し黙った。
わかった、と小さく返事をしながら踵を返すから納得したんだろう。
いいんだ。
ただの喧嘩だ。
ムカついたから、殴った。
おれが一方的に殴って怪我をさせた。
それだけだ。
オヤジにもそう報告した。
オヤジは暫く考え込んだ後に、ひとつ頷いて、歯ァ食いしばれとそれだけ言うと、拳を振り下ろした。
久しぶりに受けたオヤジの拳は、今思い出してもちょっと、もう暫くは受けなくていいと思う程に、強い痛みを生じたが。
43歳にもなって、まさか女の為に、オヤジに殴られる日が来ようとは思ってもみなかった。
これはおれの勝手な、自己満足だ。
だが、好きな女の名誉を守れたんだとすれば、上出来だ。
それに…。
単調な作業をしているとどうしても思い出す。
あの晩の☆☆☆の姿。
いったん休憩するかと、手すりにデッキブラシを立てかけ、そこに肘を乗せて海を眺めた。
視界に広がるのは、いつも見ている筈の大海原。
動く水面によって光が様々に動いている。
綺麗なもんだなァ。
だが、あの日の☆☆☆はもっと綺麗だった。
動く光なんか比べ物にならない程に、おれに向けられていた唇はいやらしい程に卑猥に光って、それでいて美しかった。
ああ…キスがしてェ。
唇に、自らのそれを押し付けて…。
あの時は、まだおれ自身好きだとか好意だとかの感情はなく、☆☆☆だって特におれをどう思うとかはないだろうと躊躇したが。
セックス経験はないと後に言ってはいたが、キスはどうだった?
求めていなかったか?
開いた唇。
少し窄めておれを求めていた唇。
しなかったことで、落胆したように開閉を繰り返していた仕草は、エロかったなァ。
それに、熱い吐息も感じていた。
目元もとろけて、羨望の眼差しがなんとも言えねェ色気を出していた。
おれにまで、媚薬がうつったんじゃねェかっていう程に、興奮もした。
あの時、しておけば良かった。
今になって凄まじく後悔している。
触れたら、一体どんなだっただろうか。
柔らかそうで、甘そうで、マシュマロみてェだったんだろうか。
マシュマロは食ったことはねェが。
触れたら、どんなに気持ちがいいだろうか。
そもそも、触れるだけで済むだろうか。
また、乱れる姿も見てェ。
おれの腕の中で、声を上げて腰をくねらせ、達してしまう姿。
もっともっと、感じさせてェ。
媚薬なんかじゃなく、このおれの手で。
それに、今度こそは最後まで、☆☆☆の奥深くまで入り込みてェ。
おれので感じて、もっとと求める☆☆☆の姿は、どんなにいやらしくなるんだろうか。


「あのさ、……マルコ」
「……ッ…!?」


丁度☆☆☆の艶めかしい姿が頭の中で再生されている時だった。
それが突如として、サッチの顔が近距離で現れたもんだから、後方へと仰け反った。
下がったおれの身体はデッキブラシにぶつかり、甲板へと滑り落ちて大きな音を立てている。
それを拾うのも忘れる程に、驚いた。
仰け反ったまま暫く動けず、ただただサッチの顔を見るばかりのおれ。


「立場的に、ほんと…なんていうか、すっげー申し訳ねェんだけど…」
「……な、んだ…」
「なんていうかさ、頬なんか染めちゃって、めちゃくちゃキモいけど、どうした?」
「うるせェよい!…おまえ……ッ」


茶化すような、それでいておれの顔を覗き込んでいるようなしぐさをするサッチ。
ああ、顔が赤ェのはよくわかっている。
☆☆☆のことを考えているときは、仕方ねェだろう。
殴ってやろうと思い上半身を元に戻すと、サッチの手にデッキブラシが見える。
この瞬時におれのを拾ったのかと、背後の床を確認すると、落ちたと思った場所にその通りに転がるおれのブラシ。
ここを立ち去ったと思ったサッチは、掃除用具を取りに行っていただけらしい。
おれが殴らないことがわかると、鼻歌を歌いながら、床を擦り始めている。
確かに、元凶はこいつだ。
共に掃除をするということは、こいつなりの責任の取り方なんだろう。

その後、隊長二人で甲板掃除をしているという光景は相当目立つらしく。
何度もクルーが心配してやってきた。
4番隊のヤツらが揃って並んだ時は、おれの時と全く同じでデジャヴでも見ているのかと思った程だ。



**********



「いやァ〜!肉体労働の後の飯は美味ェなァ!」


三人前はあろうかという昼食の量。
真正面に座るサッチの前にあるトレーには、それくらい乗っている。
白米を片手に、おかずを頬張り掻き込むように白飯を口の中に流し入れている。
その間中、喋りまくっているから、飯粒が盛大に飛んできていた。
食欲失くすよい…。
そうは言いながらも、おれも久しぶりに掃除なんかしたものだから、腹は減っていた。
昼飯がこんなに美味く感じるのも、食欲が旺盛になっているのも、久しぶりだ。
たまには、いいのかもしれねェな。
隊の手伝いで甲板掃除も悪くねェ。


「なにが肉体労働だい!てめェがホースなんか持ち出すから、水浸しになって大変だったじゃねェかよい!」
「水かかった時のお前、ケッサクだったな!」


ぶわっはっはっとまたも飯粒を盛大に口から飛ばしながら大笑いするサッチ。
瞬時に自分のトレーを持ち上げて皿を守るおれ。
その姿を見て余計に笑うから、どうしようもねェが。
全くこいつは、呑気なもんだ。
実際、罰だったんだが。
久しぶりに見習いの頃を思い出して楽しかったのも事実。
一体どれくらい久しぶりなのかすら、思い出せない程に時間が経過していたのを感じた。

食事も終わりに近づき、相変わらず豪快に笑うサッチに小さくため息をつきながら、何気なく廊下の方へ目線を遣った。
本当に、何気なくだったが。
開けっ放しになっている食堂の扉、その向こうの廊下を歩いて通り過ぎる二つの影。
思わずその光景を見て、立ち上がってしまった。
☆☆☆…、と、奴だ。
☆☆☆に媚薬を盛った張本人。


「皿、下げといてやるよ」
「ああ、悪い…」


すでに意識は廊下の向こう側で。
サッチの言葉には生返事しか出来なかった。
一瞬だけ見えた二人の姿。
見失わねェように、即駆け出していた。
あいつの方が先だった。
ということは、呼び出されたか。
食堂を出て、一本道の廊下を進むと、この先は。
さっきおれ達が掃除をしていた甲板に出る。
一瞥して、人の姿は見えねェ。
そんなに間は空いてねェ筈だ。
見失う程、離れてはいない筈だ。
姿を見てすぐに、飛び出してきたようなものだから。
だが…ふと我に返り冷静になると…。
何故こんなにも危機感を持って飛び出してきちまったのか。
真昼間のモビー・ディック内。
何かおかしなことなんか出来る筈もねェ。
それに、☆☆☆だって着いて行っていたじゃねェか。
危険があれば、着いていく筈がねェ。
ダメだ、おれのことは置いておいたとしても、憶測ばかりが脳裏を過ぎる。
単純に、相手が誰であったとしても、☆☆☆が男と二人でいるという事実が、許せなかっただけのような気もする。


「……ほんと、ごめん!」


これじゃ、バカみてェじゃねェか。
まさにそう思い、食堂に戻ろうと踵を返した時だった。
微かに聞こえてきた、謝罪の言葉。
それにこの声。
聞き覚えのあるこの声は確実に、あいつのものだ。
甲板を一瞥しただけじゃわからねェ、影になっている箇所から聞こえたその声を頼りに、そちらへと足を向けてみる。
壁一つ隔てた向こうに、二人の姿があった。
影を見る限り、男の方が頭を下げている様子。
こんな…。
こっそり聞き耳立てるなんて、いい趣味してるぜ。
だが、下衆な行動だろうと、どうしてもこの場を去ることが出来なかった。


「おれ、☆☆☆のこと好きなんだ。それで…出来心っつったら、アレだけど…あの…」
「謝って頂くことは、何もありません」
「いやでも、ほら……おかしな、飴とか」
「飴は美味しく頂きましたわ」
「なん…とも、なかったのか?」
「ただの飴に、何かありますか?」


声だけ聴いているとよくわかる。
震えている。
強気に、凛と言葉を返しているようだが。
震えているように、聞こえた。
今すぐ、抱きしめて支えてやりてェが。
今ここでおれが飛び出したところで、事態を悪化させるだけだ。
何も出来ねェ。
何もしてやれねェ自分に腹が立つ。
ただその場で、身を隠しながら拳を握りしめる自分の不甲斐なさ。
情けなさすぎて、吐き気がした。
尚も続く、男の告白。


「あ、…ははッ…何も、ねェならいーんだ。良かったら、おれ…と」
「申し訳ありません、今は船長とお仕事のことで頭がいっぱいで、お断るすることがあってもよろしいでしょうか」


その後も、何度か男が食い下がっていたが、☆☆☆はその都度きちんと断っていた。
暫く会話が続いた後に、諦めたらしき男がその場を去っていく。
おれは見つからねェように、壁の影に身を寄せた。
男の進行方向におれがいたのが幸いしたか、気付かれることなく去っていく背中を見送った。
おれも、戻るか。
こんな立ち聞きしてたなんて知られたら。
格好悪すぎる。
去る時に☆☆☆と鉢合わせなんかしちまったら尚更。
そう思い、もう一度壁の向こうの☆☆☆の姿を確認すると。
さっきと同じ場所から動かず、その場に佇む☆☆☆の姿。
肩が震えて。
泣いている…?
そりゃ、そうか。
怖かっただろう。
もしかしたら、あのままヤられてたかもしれねェんだ。
だったら着いて行かなきゃいいんじゃねェかとの疑問も沸くが。
おそらく。
なかったこと、にして納得させようとしたんだろう。
自分は媚薬なんか飲まされてねェ。
これからも船で共に過ごすんだ。
どこで漏れるかもわからねェなら、なかったことにして、やり過ごそうとしたんじゃねェか。

さすがに、ここでも出ていくわけにはいかなかった。
盗み聞きしていたことを知られたくねェのも事実だが。
弱い姿を、再びおれに見せるということが、酷なことだということも、理解できた。
なんとも情けねぇが。
好きな女が泣いていても、慰めることもできねェ。
不甲斐ない自分。
影で拳を握りしめていることぐらいいか、できねェのかよい。
そんなおれの歯がゆさを理解してか、背を押してくれる事柄が背後で起きていた。
食事を終えたクルーどもが、昼休憩に甲板に出てきたんだ。
日光浴でもしようというのだろう、その場で転がる者、それをよける為に奥へ足を進める者。
案の定、こちらへ向けてくるヤツもいる。
足音が近づいてくるのを感じた。
☆☆☆は…?
まだ、気が付いていねェ様子で、落ち着こうとしているのだろう、深呼吸を繰り返していた。
その姿。
他の奴に見せて堪るか!!


「☆☆☆」
「マ、マルコ隊長…!?」


壁から突如現れたおれの姿の驚いた☆☆☆が、目を見開いた後にその場から逃げようと動いた。
それよりも早く、おれの手が☆☆☆を掴み、引き止めた。
何か言いたそうにおれを軽く睨んでいるが。
構うもんか。
睨んでいるが、その目にはまだたくさんの涙が溜まっている。
今にも零れそうな涙を、指先で拭おうとして、止めた。
掴んだ腕は、未だに震えている。
そのまま腕を引くと、☆☆☆の身体が素直に移動をしたから、そっと壁へ押し付けた。
壁に寄せた☆☆☆の身体に自らのそれを重ね合わせる。
背後からは見えねェようにと、片腕を壁に着いておれと壁との間に、僅かな空間を作った。
これで、抱きしめなくとも、隠してやることは出来る。
少しだけ上半身をかがめれば、おれがナースの誰かとお愉しみだと見えるだろう。
そうすりゃ、それを邪魔しにくる命知らずはいねェ筈だ。
現に、おれに気が付いたヤツが隊長と声をかけようとし、そして、素早く離れていった。
人払いには丁度いい。


「今出れば、その顏見られちまうよい」
「…すみません……」
「嫌だったら悪いな、少しの辛抱だ」
「……ッ……だ、い…じょ…ぅ」


最後の方は言葉にならず、☆☆☆は声を殺して泣いていた。
そんな状態にも関わらず、必死に首を左右に振って、嫌じゃねェということを伝えてくれている。
抱き締めることは我慢出来たが、これは、無意識に腕が動いちまっていた。
我慢しきれなかったおれの片手が、☆☆☆の頭部へと移動する。
触れた瞬間は、☆☆☆の肩がビクッと小さく震えはしたが。
続けてゆっくりと撫でるように滑らせると、抵抗はされなかった。


「怖かったろう」


思わず出た言葉は、☆☆☆を余計に泣かせちまったようだ。
失敗か…。
そう反省はしたが。
逃げもせず、ただおれの腕の中で泣いている☆☆☆。
抱き締めてェ。
これは決してエロ心ではない。
恐怖を感じただろう、好きな女を、慰めてェと心から思った。
だが同時に、男に怖い思いをさせられた女を、好きだという感情だけで抱きしめちまっていいのかとも、思う。
ただの自己満足なんじゃねェのかと。
余計に怖がらせちまったら?
好きな気持ちが、おれを臆病にさせていく。
強く、抱き締めたい。
だが出来ねェ。
もどかしい気持ちに打ち勝ち。
ただただ、腕の中、泣く☆☆☆の身体を隠すのみで。
落ち着くのを待った。

ただ、我慢しきれなかったことが一つだけ。
上半身を屈めていることで、☆☆☆の頭部が唇に近づき。
僅かに身動ぎする祖草のついでに、そこに直に触れた。
身体中を舐めまわしたにも関わらず、その晩よりもずっと、心が騒いだ気がした。





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