十四万打企画夢 | ナノ






悲恋注意

 心情で言えば特別喉が渇いたわけではない。それでも確かに仮眠を取った事で体の水分のある程度を失っているのであろう。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをガラス製のグラスに注いだナマエは、容器に並々と満たされたそれを一息に煽りそしてコトン、とキッチン台へと空のグラスを置いた。容量が僅かばかり減ったボトルを元在った場所へと返し、汗をかく暇もなかったグラスを手早く洗い片付けた彼女は自身の左手首へと視線を向ける。腕時計は時刻が午後六時だということを示している。アジトに備え付けのシャワーで軽く汗を流し支度を済ませる頃には今夜の仕事の相方もひょっこり顔を出すことだろう。直前まで携帯電話の電源を切って連絡を絶つそれに苦言は何度も零しているのだが、仕方ない。今回も言うだろうが、どうせ改善はしないだろうと彼女は心中で溜息を一つ零した。仕方ない、リーダーであるリゾットが言ってもそれなのだから。
 キッチンからリビングを通りシャワー室へと。その過程でナマエが擦れ違ったのは同じく暗殺チームへと身を置く男、ソルベだった。どうやら彼は一仕事終わった後らしく、リビングの三人掛けソファの端に腰を沈めて仰いだ天井へと煙草の煙を吹き出しながら一時を過ごしていた。それを横目に、互いに視線を交わすこともなくただ仕事への労いの言葉を交換するだけしてその場を後にする。扉からその空間を出る際にふと聞こえてしまった彼の言葉はきっと、彼女に伝える為のものではなかったのだろう。他でもない、自身へと呟いた言葉だったのではないかと知らぬ存ぜぬの誰かが言う。
 シャワーの温い湯が皮膚表面を滑るのを遠く感じながらナマエはソルベの言葉を脳裏で思い返していた。

『……もう限界かもしれねぇな』

 彼のその言葉には、本当にどうしようもない壁に打つかってしまったかのような悲壮感や諦め、そして深い溜息のようなものが凝縮されていたように詰まっていて、彼女の耳奥へと潜り込んだままに意識の片隅に身を置いてしまっていた。誰かに聞かせるつもりも、自身一人であろうと口にするつもりもなかったであろうそれは、流水のように彼女の意識の中で渦を描くが現実の元で排水溝へと流れていくことはない。
 思考に耽る彼女の意識を浮上させたのはノック音で、それと同時に掛けられた声にナマエはハッとなって時間の経過を忘れていたかとばかりに少々慌てた声色で返事の言葉を返した。それに笑った調子で返す相手は偶には早く行動するさと軽口一つでその場を後にする。むっと扉越しに視線を相手の去った方へと向けた彼女が切り上げたシャワーに、翻るタオル。毛先からポツポツと流れ落ちる水滴をタオルで拭いながら意識を切り替えた彼女は脳裏へと標的の情報を代わりに置いた。そういえば、今夜の仕事を終えれば明日は非番だな。と、彼女はふと思う。無事に終われば、か。無事に。皮肉気に鼻で笑った。



 ナマエは非番の翌日、とあるアパートの前で腰に手を当てその部屋のチャイムを押していた。間の抜けた音が響き、数秒後にやって来る人の気配に彼女は腰に当てた手とは反対の手に持っている紙の束を構え、そして扉を開き顔を見せたその人物の面へと押し付けてやった。相手が煙草を吸っていたとしてもお構い無しだ。幸い、その相手ソルベはその時煙草を吸ってはいなかったが。自身の顔へと押し付けられたそれを受け取り文面に目を通すソルベから玄関奥へと視線を移してナマエは口を開く。右手は腰に当てたままだ。

「電源を切って無視決め込むからリーダーの胃に穴開いたんじゃないの?多分」

「……今更だろ。これくらい、可愛いもんだ」

 手早く数枚の紙に記された情報を得た彼は紙の束を彼女へと押し返す。彼女が片眉を僅かに吊り上げてみせたのはその文面を見るべき対象がもう一人、ジェラートがいることでありまた普段以上に顔色の悪いソルベの様子にであった。通常時にして不健康そうな顔色は今はさらに彼女が反応を示す程である。思い浮かべる原因は幾つかある。仕事による疲労や喫煙に伴うあれだ。煙草の煙は貴方にとって健康を損なう可能性が云々、ただそのどれが本当の原因なんて分からないし別に聞くつもりも無い。それでも、ナマエは呟くように問い質すつもりは無く言葉を口にしてしまった。 

「……顔色悪いわね」

「そうか?……と、知らねぇ振りすんのも無理だろうな。疲れてるからな、残念ながら」

「でしょうね、お大事に」

「互いにな」

 彼の言葉のニュアンスが自身のそれとは違うことに怪訝な表情を浮かべた彼女はじっと視線を向けた。それに答えるでもなく取り出した煙草を咥えた彼がその顎で部屋の奥を指す。無意識にそちらへと視線を一度向けた彼女は戻した視線で再度じっとソルベを見た。彼というと、ナマエの頭へと片手を置くと室外へと出る為の道を譲るように押すのみだ。彼女の小さな抗議の声は彼の足を止めるものにはならない。

「俺はちょっと出てくる」

「別にいいけど、何処行くのよ」

 彼女のその問いに答える言葉は無く、その代わりに空の煙草の箱が後ろ手に振られて彼女にみせられていた。小さく吐いた溜息と同時に吹いた風に彼女の手元の紙がカサカサと音を立てる。それへと視線を落した彼女は室内へと入り後ろ手に扉を閉めた。手早く用事を済ませて終おう。まだ時間は在れど、数時間後にはデスクワークが自身を待っている。
 リビングに足を踏み入れてナマエは視線を彷徨わせるまでもなくその場にジェラートが不在であることを確信し、そしてどうしたものかと息を吐いた。それは彼の気配が奥、寝室から確認出来るからであって同じように相手にも自身の気配は伝わっているであろうにこの場に出てくる気配が微塵もないからである。ジェラートが寝ているわけではない。そうであったならソルベの口からその情報を得ているあろう。ジェラートは自身の時間を邪魔されるのを嫌う。誰しもそうであろうが、理不尽な場合でも彼の反感を買ってしまうし、購入してしまったらそれは少々面倒が臭いものだ。
 兎に角、目当ての相手が出て来ないとなればしょうがない。このまま帰るわけにはいかないし、書類だけ置いていくわけにもいかないのだ。ナマエはとりあえずとばかりに普段ソルベとジェラートの二人が腰掛けているであろうソファへと腰を沈めた。彼女は三人掛けのそれの中央へと身を寄せ合って座る二人の男の姿を脳裏に思い浮かべ、そして軽く唇の端に笑みを浮かべた。

 暫く後、彼女の鼓膜は奥の部屋、寝室の扉の鍵が開錠される音を捉えた。待ち時間にキッチンから勝手に拝借したマグカップとそこから垂れ下がっているティーバッグの端の糸と紙。それらへと視線を向けたままに彼女はソルベに言ったものに似た苦言を同じようにジェラートへと口にした。苦笑を浮かべた唇はそのままに、彼女の右手はもうそろそろだろうと垂れ下がった糸端へと向かいかけ、そしてそこに辿り着く前に驚きの為に跳ねた。

「……私とジェラートってそういう関係だったっけ?」

 幾分口にするかしまいか迷った後にした言葉は、背後から彼女自身へと回されたジェラートの腕に投げかけられたものだ。分かり切った答えの確認の為ではないその質問に、彼女の首筋に吐息を零しながらジェラートは答える。――いいや。あんたには×××がいるだろう。問い掛けではないジェラートの言葉に僅かに頷く彼女は自身の視界の端で揺れる彼の髪に数度瞬きをする。少しばかり甘く、それでも女性的ではない香りが鼻先を掠めてナマエは細めた目と軽い口調で唇を開いた。

「ジェラートも疲れてるの?メローネみたいなことして」

「あァ、うん。疲れてる。それもとびっきり」

「うん、お疲れ様」

「どーも。……メローネみたいってのはイタダケナイ」

 二人して軽口を交わしているようでいて、ナマエは自身が発する言葉の一つ一つに震えるような反応をみせるジェラートにため息を零して、そして唇を閉ざした。それに倣うでもなく同じ様に唇を閉ざしたジェラート。どちらとも無く言葉を零そうとしなくなったそこには時を刻む時計の音と、遠い街並みの音が僅かに聞こえるばかり。ナマエは窓から覗く景色へと視線を向けながらも意識は向けずにただただ義務的な瞬きを繰り返した。

 そうして経過した時間に紅茶は疾うに飲めない代物へと成り果てていた。時計の秒針の音は煩くもないが平穏をもたらすような穏やかなものでもない。カチ、カチ、と一定のリズムで鼓膜を打つその音に抗うようにぽつりぽつりと言葉を零し始めたジェラートの唇に、ナマエは室内の酸素が急に薄くなったとばかりに唇を引き結んでその表情を強張らせた。

「……好き、なんだ」

 と、対象を告げずとも確証を得るに容易いそれに彼女の唇は躊躇いがちに自身の恋人の名を告げる。常時と違って弱気な彼女のその声色を自身もそうだというのに彼は力無く笑い飛ばした。ナマエはその声色の人物が今にも子供のように泣き出してしまいそうだと思う。そんなの、想像出来ないのに。

「勿論知ってるし、好きになってくれなんて言わないさ」

 ……あァ、好きになってくれるんならそれに越したことは無いぜ?と、付け加えたそれも自棄に聞こえて、ナマエは自身の唇が無意識に彼の名を零すのを何処か他人事のように聞いたのだった。零れた先で彼の耳奥へと滑りこんだそれは回す腕の力をほんの少し強め、また震えさせた。

「まァ、……嫌いになるぐらいなら殺してほしいぐらいかな。――あんたの唇がオレへの侮蔑を吐いた瞬間先に首掻っ切っちゃうかもしれないしね。……あー、なんか、……辛い」

 か細くなる言葉に一度ひゅっ、と乾いた呼吸をした彼は間を空けてから諦めたように言った。

「……結局さァ……愛して、ほしいんだよね」

「っ」

「あァ、ダメだ。ダメ。愛してくれだなんて女々しいことがオレの口から漏れるだなんて、クッソ……!……辛い。辛い辛い辛い、疲れた。……痛い」

 そして口を噤んだジェラートはその腕を解いた。引き結んでいた唇をままにナマエは一度閉じた瞼を開けて、数回瞬きをした。言葉を租借するように。薄く唇を開いた彼女はゆっくりと半身ごと後ろを振り向く。振り向いた先で思い浮かべていた言葉を口にしようとしていた彼女は虚を疲れたかのように目を見開き、そしてその言葉は彼女が思っていたよりもこと至極容易くと出てはこなかった。

「――ごめ、んなさい。……ジェラート」

 彼女の視線の先、彼の浮かべる表情は彼女が今の今まで一度も見たことが無い、彼が見せたこともない表情で。
 きっと彼女は、自身がどのような表情を浮かべて彼へと謝罪を口にしたのか自覚が無かったのだろう。苦しんでいるジェラートを目の当たりにし、彼と同等かそれ以上に悲痛な表情を浮かべる彼女。ナマエのそれを見たジェラートは笑った、自身でも覚えが有るほど歪な笑みで。ぽろりと零れる涙を付けたそれは初めの一つを皮切りにぼろぼろと零れる涙へと変わり、それでもジェラートは自身のそれを拭うことはせずに伸ばした両の手でナマエの両耳を覆い苦々しい笑みを深める。

「聞いてくれなくていい、あんたの気持ちなんていらない。――そうやって苦しんでる顔が見られるなら」

 そうして微笑み狭められた彼の視界から溢れた涙彼の頬を濡らしながら落ちた先のソファへと吸い込まれていった。



 伸ばした手がドアノブを掴む前に音を立てたそれはナマエの目の前で開き、そして帰宅した彼ソルベの姿を露わにする。外から招かれた風が彼女の髪を揺らし、顔を上げた彼女にソルベは見下ろす視線を向けながら口を開く。

「あぁ、帰んのか」

「……あ、ソルベ。……書類は渡したしね」

 時間差を作る思考の鈍さに僅かに頭を振るナマエを見下ろすソルベがした事といえば彼女の頭を無遠慮に撫でることであった。小さく短い声の抗議を漏らす彼女は彼の行動に自身の乱れた髪の隙間から相手を見上げ、そしてあっ、と思い当たったその言葉を口にした。確認するでもなく、それでも聞いてしまったその言葉は後には戻らない。

「ソルベとジェラートは気が合うよね、とても」

 その言葉の意味を分かっているというようにソルベが浮かべた僅かな口辺の笑み。見覚えのあるそれに心臓付近の衣服を思わず掴んだ彼女にやはりソルベは彼女の頭を撫でるだけで何を言うでもない。

 そうして彼女はその場を後にした。彼らと彼女のこの後を語ることはない。報われる者、繋がる運命があったとすればその舞台裏にはいつも影があり、また話には裏が有り表が有る。人の数だけ解釈が有り語られることのない筋書きがあったとして、何を以ってただ一つの思いが報われるのだとしても、このただの話の一つは悲恋と呼ばれるものだというだけ、それだけだ。


(罪と罰)