十万打企画夢 | ナノ






 思えば、ナマエは少々彼のことを見縊っていたのかも知れない。彼、イルーゾォのことを。勿論暗殺業に関わる面での技量なり何なりのことを過小評価したことはない。彼自身の力量もスタンド能力も、自身の遥か上に位置するものだと認識していた。していたのだが、如何せん、それ以外での面が彼女の目につき過ぎたのである。暗殺業務中の鏡の中にいる時のあの勝気な振る舞いは何処へやら、普段のイルーゾォは何処か自信無さ気で、その少し丸まり気味の猫背が拍車をかけてんで駄目なのだ。彼女、ナマエ曰く。
 イルーゾォはメローネのからかい標的になることが多い。それはギアッチョの次くらいに、なのだが彼の場合はメローネの他にも一名増えるのだ。からかってくる相手が。勿論、ナマエである。往なすことに慣れていない初心で神経質な反応はからかうに値する。彼女と彼が暗殺チームに入ったのはほぼ同時であったようなものなので、それに上下関係のいざこざは絡まないし、そもそも軽薄ないざこざには上下関係など糞喰らえがここの仕来りである。勿論、多分。メローネが軽口で言っていたことから信憑性は限りなく低く、それを例えば、リゾットなんかで確かめる馬鹿はいない。メローネ以外は。――話が逸れてしまった。兎に角、イルーゾォをナマエがメローネと揃って、もしくは彼女単体でからかうのは言ってしまえば当たり前の行動だったのだ。日常に、組み込まれていたのだ。だから今日、本日、晴天の下非番の一日をアジトのリビングにある鏡の整備にあてていたイルーゾォをからかう言葉を一言口にしたのだ。いや、違う。一言と言わず二言ないし三言は言ったか。兎に角、彼女は口にした。
 だから、自業自得なのだ。この状況は。数秒にも満たぬ身体への違和感の後に訪れた、静寂でいて景色が反転されたその世界に放り込まれたのも。その現象に心当たりしかないナマエは一瞬は呆けたものの、変わらず鏡の前にいたイルーゾォへと詰め寄って強気にスタンド能力の解除を迫るのだ。非番であるとは言っても、此処が彼の土壇場であることは代わりないというに。

「ちょっと、どういうつもり?早く外に出してちょうだいよ!イルーゾォが許可しなかったカッフェがリビングの床を濡らしてるじゃない!」

 イルーゾォが背中にした鏡面から覗くのは二人が今の今までいた現実の下の世界でいて(こういってはイルーゾォのスタンド能力下である鏡の世界が非現実的だと言っているように聞こえるが、別段そこに関心を寄せるべきではないからこれは軽く流すべき例えだ)その景色ではナマエの言うようにぶちまけられたカッフェがリビングの床を濡らしていた。割れて陶器の破片を撒き散らしているマグカップもおまけだ。
 今にも自身の喉下に食いつかんばかりに詰め寄るナマエをイルーゾォは見た。いや、その視線の流れは見下ろしたと表現した方が正しいかもしれない。自身より身長の低い彼女、ナマエを見るその視線の為に伏目がちなそれに含まれたもの。それに気付かないままに彼女は彼との距離を詰め終えて、整えられた爪先の人差し指は刺し貫かんばかりに彼の首下から喉下を見上げた。

「は、や、く!」

「……喧しいな」

 ぽつりと、雨粒のような呟きが彼女の鼓膜へと滑り降り落ちた時には彼はもう動いていたし、それに対して彼女も応戦する構えを取っていた。否、取ろうとしていた。本能といえる反射のままにスタンド能力を発現しようとした彼女の意に反して、それは現れなかった。だから、彼女は出遅れた。彼女が己のスタンド能力まであちらへと置いてけぼりにされていたのだと理解した頃には、先程まで彼が背中を預けていた鏡に今度は自分自身が背中を預けることになっていた。冷ややかな鏡面に押し付けられながら、彼の手によって自身の顔の横で自身と同じ様に鏡面へと押し付けられ続けている己の手を視界の端で捉えて、それから少し上げた視線でそれを確認した。ナマエは息を呑む。漸く、自身を見下ろす彼の瞳の中のそれに気付いたのだ。

「ッや、やだっ、本気にしたの?怒ったの?ちょっと、ちょっとからかっただけじゃない!」

「……何時ものように?」

「そうそう、ただの冗談よ!」

「じゃあ、これも只の冗談だ。遊びだ」

 そう言いながらも強まるイルーゾォの力にナマエは冷や汗を垂らした。スタンド能力を無くした自身が彼に抗えるわけがないということは分かりきっている。

「だから、逃げればいいだろう?」

ナマエの見上げる先で彼の口角が僅かに吊上がった。普段のヘタレ具合もなりを潜めて、今ここにいるのはただの狼だ。掴まれた手首が痛い。それ以上に、そこから伝わってくる温度が熱い。逃げる術を模索しながらも見上げ、見下ろされることで交わったままの視線を逸らすことが出来ないでいる。ナマエは薄く開いた唇で拙く彼の名前を呼んだ。それすらも、何かを喉に詰まらせたように上手く発せていないものだったが。それに、彼の捕食者のような目は細く視界を狭めた。

「ナマエ」

 ビクッと自身の肩が跳ねるのをナマエは感じた。低く、唸るような声で呼ばれれば自身の名でさえ驚くに値する。彼女の見上げる先で彼は、交わっていた視線を一度右側へと外し、戻してから、一度瞬いた。それから、言葉を紡いだ。

「……やっぱり、……逃げないで、欲しい」

 その言葉に思わず聞き返そうと唇を開いた彼女を押し黙らせるように、彼は首を僅かに左右に振って言葉を言い変えた。

「あぁ、いや、違うな……逃がさない、だ。俺は多分、ナマエがどんな術、答えを出そうと結末は一つしか用意してないんだ」

 吐息が互いの唇にかかるほどに近くなった距離にナマエはさらに押し黙る。その距離でもう一度確認するように呼ばれた自身の名にも身じろぐことが出来ぬままに、視界だけを目一杯に見開いた。彼女の視界、思考は既にイルーゾォだけで埋まっていた。



 此処で何か事件が起きましたよ、とでも言うようにその砕けた身を晒すマグカップを数秒見下ろし続けた後に、メローネは壁へと掛かっている鏡へと目を向けた。返って来るのは自身の視線だ。詰め寄って覗いてみても、ノックしても、その事実は変わらない。それでも、鏡面へと自身の拳を控えめに打ちつけながら、彼は面白そうに口角を引き吊り上げてにんまりと笑んでみせた。

「ああいうのが、一番何するか分かんないだよな。だから、面白い」

 鏡面のその先へとひらひらと手を振ってみせたメローネはその場を後にする。それを視界の端で確かに見ていたイルーゾォは、僅かに眉根を寄せて嫌悪感を露わに中指の背を見せながら上方へと向けていた。罵りを一声上げたいが、それをするには彼の唇は忙しい。


(丸呑みされた赤頭巾)