十万打企画夢 | ナノ






 ナマエは溜息を吐いた。それは深く、されど出来る限り静かに吐き出されたものだ。吐き出した分を乞うように勢い良く取り込んだ酸素に半ば咳き込みそうになったが、そこはグッと堪えてハンドルを握り込む手に力を込めた。それは今にもツルッと滑りそうだ。
 彼女はその手の平に汗をかいている。気分は落ち着かない。動悸も目眩もないが、走る車体の窓から覗く後ろへと流れている街灯達はちらちらと目に眩しく、またその一定の間隔がまるで自身へと催眠をかけようとしているかのように感じた。
 ナマエは頭を振った。睡魔は彼女の領域に一歩たりとも踏み込んできてはいないが、それでも頭を振っておかないとやり込められそうだったのだ。この、車内の雰囲気に。――とはいっても、そんな雰囲気を感じ取っている、またはそんな雰囲気に感じているのは彼女一人なのだろう。ナマエがちらりと横目で確認した助手席に座るその男は何をするでも言うでもなく、組んだ腕と閉じた瞼のために何を思い感じているのか定かではなかった。

 ナマエは心の中で半分は後悔をしていた。今日という日、あの場所、あの時間帯に客――いや、詐欺を働く相手を待っていたことを。どれか一つでも欠けていれば、今こうして助手席にこの男を乗せてはいなかっただろう。また一つ溜息が出そうだ、と彼女は思う。ナマエは行き場の無い気持ちのままにアクセルを少しばかり踏み込んだ。
 助手席の男は特にこれといった反応はみせない。ただ、どうみても一般人には思えないその立ち姿と纏う空気にナマエは不貞を働く気もからっきしになっていた。それは、その男に声を掛けられた瞬間からだったが。
 堅気とは思えぬそれに建前のそれを前面に押し出して、単なるタクシードライバーである体を貫いた彼女の判断は正しい。だが、彼女も思ってもみなかっただろう。まさか自身の車の助手席に腰を沈めるその人物が堅気でないどころか、暗殺を業とする、それもそれのリーダーを務める男であるだなんて。勿論この時彼女は男の名前も知らなかったし、彼、リゾット・ネエロが彼女に告げた行き先が殺す男の住んでいる場所だなんてのは想像に及ぶはずがない。

 さて、車内の様子に戻ろう。内心と手の平にだらだらと冷や汗を流すナマエは口を開くべきか否かを迷っていた。沈黙は金だとはいったものの、タクシードライバーとして少しばかりは会話を振っておくべきか。目は閉じているものの、男は寝ている風ではないし、それにナマエ個人の考えとして話しかけておくべきである方に傾いている。
 ナマエは僅かに唇を開いた。しかし直ぐにぴったりと閉じてしまった。車内はこんなにも乾いた空気だっただろうか、酷く、喉が渇く。
 実はともいうべきか、彼女が彼を乗せてから疾うに二時間は経過していた。客待ちをしていた時は薄暗さの欠片もみせていなかった空が今や満天の星空だ。街中を離れた空に輝く星はそりゃあロマンチックだが、そんなものを楽しめるほどの心の余裕を今のナマエは持ち合わせてはいなかった。そりゃそうだろう。

 信号待ち。緩やかに掛かったブレーキ。ナマエは一度自身の手の平を衣服に擦り付けた。緊張の度合いにより酷く汗をかいている。汗を拭った手の平を二度握っては開く運動をして、またハンドルを握り直した。事故、あるいは違反なんて出来ない。もってのほかだ。

 だが、人間というものはどうしてこうなのだろう。その瞬間、ナマエは信じてもいない神様に許しを乞い、さらには殺してくれだなんて願ってもしまった。やはり緊張の為に汗をかいた手の平にハンドル操作を僅か、ほんの少し、雀の涙程度だが、誤ってしまったのだ。いや、勿論彼女は事故なんて起こしてもいないし、違反でキップを切られるような真似をしたわけではない。少し、他の人なら別段気にも留めない位、そんな僅かだが車体をふらつかせてしまった。それだけだ。
 それでも、ナマエは心中で膝から崩れ落ちるほどの衝撃を受けて実際には涙まで浮かべてしまった。ちらり、横目で男を窺う。うっ!声には出さずとも心中で彼女は呻いた。助手席の男の閉ざされていたそれが、今は確かにその瞳の色まで確認出来る。ようは目を開けていたということなのだが、彼女にとってはそれだけでは済まないという話だ。
 ナマエはだらだらと心中で冷や汗を垂らした。男を乗せたその瞬間から今の今、この最中まで一切表情は崩していないのだが、心の中というものは酷いものだ。そして彼女の脳裏で彼女自身は雄叫びをも上げんばかりに握り拳を作った。助手席の彼はまた瞼を閉じて元の通りとなったからだ。翌朝の新聞に少なくともタクシドライバーの死亡記事は出ないらしい。

 そうして手に汗を握る数時間のドライブは終わりを告げる。男の告げた目的地に着いたのだ。ナマエはホッと胸を撫で下ろし、そうして唇を開いた。

「お客さん、着きましたよ」

 震えぬように努力した声色で自然に、当たり前のようにありふれたその言葉を口にした。彼女の視線の先で男が目を開けて、彼女へと視線を返す。ナマエは内心慌てながらもメーターに表示されている金額を読み上げた。平常心を心掛ける。そして男の差し出したものを受け取る。平常心が崩れる。

「ちょっ、ちょっと多い……!いえ、ちょっとどころか多過ぎますが……!」

 チップにしても多過ぎる金額にナマエはしどろもどろで相手の顔と受け取ってしまった金を交互に見た。彼といえば、それがどうしたと言った具合で慌てたように上がる彼女の言葉にはなんら返事を返さない。

「メーター通りの金額でいいですから!」

 示された金額を指差して言うナマエに、男は数字をちらりと見て漸く口を開いた。男の声は出発時聞いてそれっきりであった。

「……受け取ればいい。邪魔をしてしまっただろう」

 邪魔をしてしまった、とは。その言葉を数回自身の頭の中で復唱したナマエは、その場から今直ぐにでもドアを開けて逃げ去りたくなった。彼は彼女が所謂詐欺の相手待ちだったことを最初から分かっていたということだ。逃げたい。それでも、彼女は単語にもならない音を吐き出しながらうろたえることしか出来なかった。しかしナマエはその後さらにうろたえることとなる。

「……時間はあるか?」

「えッ!?」

 彼がそう問い掛けてきたからだ。焦りながらも首を縦に振って時間は幾らでもあるということを示した彼女へと彼は続けて言った。

「帰りも頼もう」

 男の言葉に内心ちょっと期待したナマエは男の二言目に自身の頬を頭の中で叩いた。それでも、ナマエは自身の携帯番号を書き添えている名刺を彼へと手渡しながら「どうもご贔屓に」だなんて愛想良く言葉を返せたのだから、上出来だ。名刺は彼女の手から彼へと渡る。

「……ナマエか」

 男の低い声が自身の名を紡ぐので、彼女はどきりと心臓を跳ねさせた。それに、視線の先で彼は僅かに表情の変化を見せているではないか。

「帰りは、」

 一度区切った彼は確かにナマエの目を見ながら言った。

「安全運転で頼む」



 そして降りて行く男の背を見送って助手席のドアを閉めた後、ナマエは自身の側頭部を打ち付けるようにして窓硝子へと預けた。音と、感情を思い切り露わにした溜息を大きく吐き出す。そして独り言。

「……せめて、帰り道では名前を聞き出そう」

 ナマエの胸の内、どうみても堅気じゃない人を乗せてしまった半分の後悔を押しやって未だ居座るのは、どうみても堅気じゃないし恐い見た目をしているというのにその男に惚れてしまったという、つまり、残り半分の心の中はこの出会いに諸手を上げて歓喜の声を上げているのである。色々と、笑えない。
 ゴツン。彼女はもう一度窓硝子へと側頭部を打ち付けた。そんな彼女が彼の名前を聞き出すどころかお抱えの運転手、さらにはその後恋人なんて地位に就くだなんて、想像に及ぶはずがない。少なくとも、この時彼女はどうやって自然に名前を聞き出すか作戦を練っていたし、リゾットといえば暗殺の真っ只中であったわけだから。


(punto d'arrivo-到着地点-)