十万打企画夢 | ナノ






 あ。イルーゾォは自身の胸中で声を上げた。何故なら、非番で何をするでもなく店通りを歩いていた彼の視線の先には、同じく今日という日に任務の入っていない彼女、ナマエの姿があったからだ。店主からたんまりと食材の入った紙袋を受け取るそれは後ろ姿だが、それでもその女性が自身の同僚であるナマエだということを彼は絶対的に見留めていた。イルーゾォの視線の先で彼女の後ろ髪が背中で揺れる。
 早足で距離を詰めたイルーゾォは彼女との間がほんの僅かになってからその足取りを緩めた。何でもないような、ただの偶然のような接触を思わせるように。

「ボンジョルノ、ナマエ。買い物中?」

 片手を少し上げて声を掛けた彼に、紙袋を両腕で抱えるナマエが振り返る。振り返った彼女に彼女の毛先は跳ねたが、彼女自身は肩を跳ね上げることも表情の一片も崩す事無く、少々不自然なイルーゾォの口辺に浮かぶ笑みを見て挨拶の言葉を返した。

「ボンジョルノ、イルーゾォ。はい、プランツォの食材を」

 ナマエの声色は一定の抑制で、彼女を知らぬ者が聞けば無愛想にも聞こえる程。整った顔立ちや少しばかり吊り上がった目尻に冷ややかさを感じるが、仕事はスマートにこなしてみせるし細やかな気配りも出来る良い女だということをイルーゾォは知っている。

「んー……ボンゴレ、ロッソ?」

 紙袋から覗く食材を見てイルーゾォが献立の予想を口にした。トマトが日差しを受けて鮮やかな赤をみせている。ナマエはちらりと自身の持つ紙袋へと視線を向けてから唇を開いた。

「いいえ、ボンゴレ・ビアンコ」

 トマトはアンティパストとなるファルチアの材料らしい。簡潔に付け加えたナマエの赤い紅の引かれた唇をちらりと見たイルーゾォは、下げた視線で紙袋を見ながら心無さ気に鼻から抜けるような返事を返した。

「ふーん……」

 その様子を見たナマエはくっ付けていた上唇と下唇の間に数秒の後隙間を空けて、未だ俯き加減に何処か思考を巡らせているイルーゾォへと提案を持ちかけた。それは彼にとって思わぬ展開、されど望んだ流れだった。

「今から帰って支度になるので遅くなりますが、それでよろしければご一緒にどうですか。それとも、もう終えましたか?プランツォ」

「っいや、まだだけど。……いいのか?」

「そういう顔をしてました」

 恥ずかしそうに己の頬を指先で掻いたイルーゾォは、照れ隠しのように彼女に断りを入れて食材のたんまり入った紙袋を抱えた。ナマエのアパートメントは少し遠い。


 ちらちらと盗み見るように隣へと視線を向けるイルーゾォと、真っ直ぐ正面を向いてモデルの様に風を切って歩くナマエとの距離は少しばかり開いている。とはいっても、間柄同僚でいてそれ以上でも以下でもない二人にしたらそれ相応の距離だ。しかしそれがもどかしくもあるイルーゾォは、さして彼にとっては重くもない紙袋を抱え直しながらまたナマエの横顔を盗み見た。

「!」

 そしたら、彼女が彼と同じタイミングで視線をやってきた為に彼の手の内の紙袋が跳ねる。慌てて食材の安定を図ったイルーゾォ。そのお陰でトマトは転がらずに済んだが、もう一度横目で確認した時にはナマエの視線は真正面へと戻っていた。彼は胸中で肩を落とした。これでは折角の機会が台無しじゃあないか、と。

 噴水広場には人が沢山いた。移動式ジェラテリアでジェラートを買う親子連れや、街灯の下忙しなく腕時計で時刻を確認する青年。背中を丸めて鳩に餌を与える初老の男性、その向こうに見えるベンチに腰掛ける男女二人は恋人同士だろうか。駆けて行く数人の子供達に鳩が三匹空へと羽ばたく。それらの人通りの中を横切るイルーゾォとナマエの二人も噴水広場にいる沢山の人の一員だ。イルーゾォの視界の中、ナマエの後方に窺える煌いた飛沫は彼にとって彼女を引き立たせるものに他ならない。

「……眩しい」

 ぽろっと口から零してしまった言葉にしまったと思ったイルーゾォ。だがナマエはその言葉に噴水の方を見て、そして空を仰いで手の平を翳しながら言った。

「快晴だと気分がいいです。でも、そうですね。ここまで快晴だと眩しいです」

「あっ、うん。まあ、雨が降らないだけ良かったよ」

「折角の非番ですからね」


 噴水広場を後にした二人が歩む煉瓦畳の通り、此方の人通りは疎らであった。イルーゾォは靴裏から響くその音へと視線を落とすようにして、ナマエへと振る話題を探しているようだ。
 数分の沈黙を破ったのは静かに唇を開いたナマエだった。

「世界というものは私には膨大過ぎて疲れます。わからないことだらけです」

 上げた顔で目をぱちくりとして驚きを露わにしてみせたイルーゾォは、彼女の言葉の真意を解こうと考えまた、判断材料が足らないと諦めて流した視線で会話を続けた。

「行き成りだな。……例えば、ってのを聞いてもいいか?」

 彼が顔を向けて問い掛けた先でナマエもまた彼を見返しながらその問い掛けに答える。

「そうですね、……例えば子供が大人になる理由。全ての流れ星の行方。林檎が木から地面へと落ちる仕組み。空は何故青で、赤ではないのか。人は何を思って、何の為にこの世に生れ落ちて去って逝くのか――わかります?」

 一つ一つの謎を挙げる度に小首を左右へと傾げてみせるナマエは言葉の最後にイルーゾォの目を真っ直ぐに見ながら、彼へと答えを求めた。イルーゾォは自身の頬を掻き、苦笑いを浮かべる。

「成る程。……いや、説明出来そうなのはあるが、ナマエが本当に言いたいことってのは他にあるって感じだな」

 彼の言葉にナマエは小さな声で「……はい」と返した。不安を感じているようなその声色を拭うように、彼女は淡々と続けて言った。

「私には、わかりません。世界には、わからないことがたくさんあります。そんな言葉で片付けてしまうほどに、私は頭が悪い」

「……ナマエは、考え過ぎなんじゃあないか?壱足す壱の数式の答えに納得出来ない奴と同じだろ」

 彼女一人が少し足早に進んだ先、彼女のパンプスの地を打つ音がカツンッ!と一際大きく響いた。ナマエはそれと同時に立ち止まり、ほんの少し後方でイルーゾォも歩みを止めた。視線は彼女へと向けたままだ。
 ナマエは淡々と、されど少し早口に言葉を紡いでいく。

「花の咲き誇る生命は何故あんなにも短いのか。あそこの角を曲がった先のバールのパニーニの美味しさの秘訣は何?独りの夜の静寂の陰鬱さはどうして。その中でもイルーゾォのことを考えると胸が温かくなるのはなぜ。シーツ越しに見ても眩しい朝の日差し。あんなにも起き難いのに、誰かが起こしにくると良し、起きよう。と、思うのは?」

「ちょ、ちょっと待て。待ってくれ。途中、引っかかりを覚えたんだが……!」

 振り返ったナマエは心底分からないといった顔をしていた。イルーゾォが彼自身の人差し指を眉根に当てて悩む姿を見ながらナマエは問い掛ける。

「イルーゾォのわからないことは?」

「えっと、……ナマエが俺に向けてる気持ちの本質、かな」

「……それもわからないことで片付けてましたが」

「それは片付けて欲しくないな。……なあ、ナマエ」

 数歩分の距離を詰めたイルーゾォが、見下げるように覗き込んだナマエの瞳。ナマエは見上げた彼の瞳の中に映る自分自身の姿を見た。

「世界にわからないことは山ほどあるが、自分のことなら教えられる。と、思う」

「イルーゾォ、つまり?」

「俺のことならナマエに教えられるよ。例えばナマエに今こうやって見上げられながら名前を呼ばれたらどきっとするし、非番の日に偶然にも出会えたことは嬉しいと思ってる。それに加え隣に並んで話しながら歩けたし、今日を心底良い日だと実感してる。……ナマエのアパートメントにまで招待されちまったし」

「……」

「……えっと、つまり、俺はナマエが好きなんだけど……」

 片付けられちゃうかな、やっぱり。そう言って苦笑いを浮かべたイルーゾォ。ナマエは表情の浮かんでいなかった頬を、遅れて紅潮させた。目を見開き、口をぱくぱくと開閉し、それは今の今まで見たことのなかった彼女の平静が崩れた瞬間だった。

「狼狽えてる姿、初めて見たよ。……可愛いな」

「っ!」

「うーん、俺にとっても世界はわからないことだらけだが、ナマエが好きだってのは揺るがない事実として此処に在るって言えるよ。……だから、その、知らないことは俺と一緒に知っていくってのはどうかな」

 まずは俺とナマエ自身のことから。そう言って紙袋を支えている方と反対の手をナマエの頬へとやったイルーゾォに、彼女は一層頬を赤らませた。左右へと視線を泳がせた彼女も、最後には伏せた睫毛で目元に影を落とした。そうして自身さえも分からないままに胸の内に秘めていたであろう言葉を小さく口にした。

「……イルーゾォ、好きです」

 彼女の頬は熱い。彼はその温度をそこへと落とした唇に感じた。



 ナマエのアパートメントへの帰路を再び歩みだした二人に少し前まであった距離は無く、絡められた指先の熱はその関係を表している。満足げな笑みを唇の端へと浮かべているイルーゾォへと意を決したように顔を向けたナマエは、まずはといった様子で唇を開いた。

「えっと、……では手始めに、イルーゾォの一番好きな料理は?」

「……ボンゴレ・ビアンコ」

 アジトで振舞わることのある、ナマエお得意のそれは彼の好物になっていた。照れ隠しに少しばかり力の強まった指先。ナマエはフッと笑みを零した。――分からないことばかりの世界も存外悪くない。そこで歩みを止めずに前へと進んで行けるなら、何れ答えは見出せるのだから。二人なら、きっと。


(地球は青い。彼は彼女が好きだ)