十万打企画夢 | ナノ






 赤褐色の液体が、キラリと光る硝子の中で波打つ。それに寄り添うように口付けられたナマエの唇に引かれた赤は、プラムレッドの艶やかさを魅せている。細い首で喉元を晒し、こくこくとワインを飲み下すままに控え目な喉仏が上下する。数口分中身を減らしたグラスはテーブルへと置かれた。彼女の親指の腹がグラスに付いた紅を拭う。

「ねえ、何時までだんまりを続けるつもり?」

 ナマエは人一人分の隙間を空けた先、同じソファへと座る人物へと横目で問い掛けた。そこにいるのはリゾットで、細められた目の奥に見える瞳はナマエの紅にも、ましてワインにもあらぬ赤をみせている。

「上唇と下唇をくっ付けちゃったわけ?」

 己の下唇の上へと指を置いて問い掛けたナマエは唇を吊り上げて、そして面白くなさそうに逆の弧を描いた。彼女の視線の先のリゾットはワインに口を付けるだけで依然として言葉を発しない。
 ナマエは思い出していた。ついこの間の任務についてだ。己で言うのもなんだが、少しばかり羽目外し過ぎたといえる。何事も無く完了させたとはいえ、その過程はスマートとは言い難く、間違えがあれば今頃こうやって隣の人物に口を利くことさえ出来なかっただろう。さらに付け加えればその任務はナマエ単独のものではなく、リゾットと組んでのものだった。彼の目の届く範囲で少々お転婆が過ぎたのだ。

 時刻は深夜。ナマエはフゥ、と小さく溜息を吐く。呼び出されたままに説教を聞かされるかと思えばワイングラスが手渡され、そのままにだんまりだ。ボトルを傾け液体でグラスを満たす間も、それ以後も、唇を開くのはこの部屋の中で彼女一人。部屋の持ち主である男は一向に喋ろうとしない。
 ――そうだ、ナマエは今リゾットの自室にいる。彼女はふとその事実を脳裏へと浮かべ、そして沈めた。長い沈黙で満たした室内には些か不釣合いな考えだろう。やはり彼女は溜息を零した。

「……失望されちゃったかしら」

 沈んだ声色の彼女の呟きがリゾットが口を付けようとしていたワインを波立たせた。いや、違う。彼は彼女のその言葉に確かに反応をみせた。揺れた彼の肩にワインは波打ったのだ。

「……お前は、見当違いなことを言う」

 長いこと聞くことがなかったようなリゾットの低い声がナマエの鼓膜を震わせる。その言葉の内容にハッとしてリゾットへと顔を向けたナマエは、ばっちりと音を立てるように打つかった互いの視線にきゅっと唇を引き結んだ。
 静かに漏れたのはリゾットの溜息だ。彼は眉根を寄せて言うか言うまいか悩む素振りを見せた後、寄せた眉のまま、されど強い口調で言い放った。

「俺の目の届かないところで勝手に死ぬことは許さん」

 その言葉を受けたナマエは目を丸くして思考を巡らせた。そして常時の余裕綽々だと言わんばかりの態度、吊り上げた唇で言う。

「あら、なんて素敵な殺し文句かしら」

 ギラリと獣の様な視線が彼女へと流される。

「茶化すな」

 彼女の唇から漏れるのは小さな笑い声だ。そしてテーブルへと預けていたワイングラスを手に取り、肩を竦めた彼女は束の間閉じた瞼の下で言う。

「少なくとも、独り寂しく死ぬのは私も嫌よ。そう思うと――」

 一旦言葉を区切った彼女は距離を詰め、リゾットが持つグラスをその指から柔く取り上げてテーブルへと置いた。彼女の指先は彼のそれと絡む。少しばかり体温の上がったナマエの指先。彼女は覗き込むようにリゾットを見て笑った。

「今ここであなたに殺してもらった方が幸せなのかもね」

 そう言ってリゾットの手を自身の首元へと導いたナマエは、薄く開いた唇から溜息のような吐息を漏らした。それは戯言と片付けるには些か本音を含み過ぎている。リゾットの親指が彼女の血管を辿る。肌の下の血液の流れを探るように押し付けられた指の腹に、ナマエの唇は弧を描く。が、次の瞬間にはリゾットの手はパッと彼女の首から離れてしまった。次に口を開いたのはリゾットだ。

「終わりにするにはまだ早い」

 静かに、諭すように言うリゾットに、ナマエはどう反応すればいいか決めかねたままに中途半端な笑みを浮かべた。

「そう、かしら」

「そうだろう。少なくとも、ボトルはまだ空け切っていない」

 リゾットが唇を吊り上げる。その様子と言葉にナマエはムッとして顔を背けてみせた。視線の先のボトルの中で赤のワインは穏やかな水面を保っている。それを捉えてはいない彼女は膨れっ面をせずとも少々不機嫌そうに唇を開いた。

「……茶化してる」

「お互い様だろう」

 その会話の後、互いに静かに息を漏らして笑んだ二人。背けられていたナマエの顔を頬へと手を当ててやわく己の方へと向けたのはリゾットだ。彼女は己の頬に感じる彼の熱に、ゆっくりとその視界を閉ざした。そして唇にも伝う彼の熱。触れるだけのそれでも彼女は睫毛を震わせた。

 合わせた唇を離して彼女と額を合わせたリゾットが、彼女に合わせるように瞼を閉じて言った。

「唇を重ねることもせぬ内に死ぬ気だったと?」

 楽しげな声色の彼に、彼女もまた楽しげに言葉を返す。

「じゃあなに、これで終わりにするの?」

 その問い掛けに瞼を開いたリゾットの瞳の奥には確かに炎が灯っている。

「まさか、餓鬼じゃあるまいし」

 開いた視界をリゾットで満たしたナマエは淑やかな笑みをその唇で描く。幸福の内で死ぬことをまんざら考えないこともないが、それには些か生を急いている。

 二度目の触れ合いを交わす二人と共に夜は色を濃くしていく。それでもまだ、朝は来ない。



(プラムレッドの幸福死)