八万打企画夢 | ナノ






 真っ白なミルクに一滴だけ蜂蜜を落としたような毛色の子猫。未だ名前を与えられていないその子猫を掬い上げるように抱き抱えた私は、リビングのソファに腰を沈めてから子猫を自身の膝上へと乗せた。小さく鳴いて私の膝上で身体を丸く収める――ホルマジオ曰く彼女、は愛らしい。
 柔らかな体毛へと片手の指を埋めながら、正反対に無機質で冷たく固い、側に放り出していた携帯電話を私は手に取った。数秒前から呼び出し音を響かせていたそれを。お気に入りの映画の導入部に使われていたその旋律は、私が親指で押したボタンの所為で途切れた。そうして片耳に押し当てた携帯電話からは通話相手を確認するまでもなく察していた彼の声が私の鼓膜へと流れてくる。

『あー、……暇してたか?』

「あなたに比べたら、暇してたでしょうね」

『いや、悪ィな。立込んでてよお』

 申し訳無さそうな声色のホルマジオが私の脳内でその眉尻を引き下げて困り顔を披露する。曰く仕事が立込んでいたために一ヶ月以上も音信不通を貫いていた彼。子猫は正しい主の顔を既に忘れているかもしれないし、恋人だって忘れているかもしれない。残念なことに、後者は忘れるどころか色濃くなる一方だが。

 約一月ぶりの会話だというのに、ホルマジオは恋人にするそれではなく、ありきたりで平凡な世間話(とんだ笑い話になる同僚のヘマや仕事関係のちゃらけたトラブルの話。ただし職種は教えられていない)を携帯電話へと囁いているし、私も淡々とした愛想の欠片も窺えない声色でそれに短く相槌を打っているだけ。端から聞いても恋人同士の会話だなんて一切感づけないであろうそれ。それでも確かにホルマジオと私は恋人同士である。

 ふわりとカーテンを波立たせる穏やかな午後の風に眠気がやってきたのか、小さく欠伸を漏らした子猫はそれに続けるように鳴き声を上げた。それはホルマジオの耳にも届いたようで、おチビさんの具合を楽しげな声色で聞いてくる。おチビさんに携帯電話を近づけて、ホルマジオの声が聞こえるようにしてもソッポを向かれたけれど。

『フられちまったなあ』

「そのうち彼女さんにもフられるかもね」

『おう、そりゃあ困るなあ。あぁ、困っちまうぜ』

「全然困ってる声色じゃあない」

 けらけらと心地好い笑い声を上げるホルマジオには見えていないだろうが、声色とは裏腹に私の頬は綻んでいる。

 うつらうつらと舟を漕ぎ、やがては頭を垂れて眠ってしまった子猫の背をやわく撫でながら、ホルマジオの話をまるでクラシック音楽を聴くかのように鼓膜へと受け入れる。心地好い声と、自身の部屋の静寂と春の陽気は私の瞼を僅かに重くさせる。夢現で彼の話へと相槌を打つ私は、心の中で呟くつもりだった言葉を実際にぽろりと零してしまった。

「会いたいな……」

 だなんて。

 自身が零した言葉にハッとなって慌てて繕った私に、電話先のホルマジオはつい先程までの御喋りな口を噤んで、早口の自身の言葉と脈打つ音が耳の中に響いてくる。

「聞かなかったことにして。あなたが忙しい人だってのは、分かってるから」

『おいおい、聞かなかったことにして本当にいいってのか?それらなら、俺はこのまま帰った方がいいってことになるしよォ』

 ホルマジオの言葉に一瞬呆けた私の耳に、間を空けて響いてくるのは律儀にも押されたチャイムの音だ。飛び起きた子猫が私の膝上から降りてキッチンへと駆けて行く。私が立ち上がって出る前に、合鍵によって開けられた扉からは愛しい彼の顔が覗いている。携帯電話を片耳に押し当てて片手を上げたままに、軽口で挨拶なんて言ってのける、一寸も変わらぬ彼、ホルマジオだ。

「よォ」

「なっ、何してんのよ……」

 内心喜びに飛び上がりたいのを抑えた私の口は本心をちっとも紡がないけれど、そんなことは疾うに承知とばかりに携帯を尻ポケットへと押し込んだホルマジオは、笑んで私の頭を撫でてくる。それだけで、先の音信不通の件を許してしまおうと思う私は、心底彼のことを愛しているのだろう。

「何ってお前が俺に会いたいっつーから来たんだろ?」

「ふっ、ふん。言ったのはついさっきですけど?それとも、ホルマジオは私の家の周りでも放浪してたわけ?随分忙しいお仕事だことッ」

 ツンッと、横向けた顔では真っ赤な耳を彼に晒しているに他ならないけれど、それでも、正面向いて彼へと素直な言葉を吐くのは難しい。

 困ったように、されど穏やかな笑い声を漏らしたホルマジオに向き直ってみれば、やはり彼は何時もの笑みを浮かべていて、そうして言葉を紡ぐために唇を開いた。

「しょうがねえなあ」

 いつもの口癖を言いながら、彼は最高の笑顔を私に向けた。そうしてから、さも困ったような手振り口振りで言うのだ。

「正直言うと、俺が会いたかったからに他ならねえな。時間を作るのに骨の一本や二本、折れちまったがよォ」

 演技染みて肋骨の辺りを擦ってみせた彼は、「まぁ、複雑骨折でもなんでも、お前に会いに来れるなら何でもこいだけどなあ」だなんて言いながらニカッと笑うのだ。私は彼のこの笑顔に弱いというのに。

「それなら、もう二三本折ってあげるから」

「ったく、お前も素直じゃねーなあ。……ま、連絡寄越さなくてすまなかったなあナマエ」

 抱き着くというよりしがみ付いた私に、腕を回したホルマジオが子供にやるように背中を優しく撫で下ろす。じんわりと涙が滲んだ視界の端から子猫が私達を見ているものだから、私は真っ赤な顔を隠すようにホルマジオの胸へとさらに埋めた。春の香りとほんの少しの薄暗い影のにおいは私の瞼を閉ざさせるのに充分だ。瞼の上へと落ちてくる唇に、私は知らぬ存ぜぬを貫いて彼の香りで肺を満たした。



(春を愛するひと)