八万打企画夢 | ナノ






注意!:死ネタ

 ――何時の日だっただろうか、それが身も凍る冬の日のことだったのかはたまた生命息吹く春の日のことだったかは既に覚えていない。ただ、その日は霧状の細かい雨が降って肌を濡らしていたのは覚えている。


 睫毛に溜まり、雫となって落ちる先の煉瓦畳。見下ろしたほんの少し先に拉げた四肢を放り出した死体は、厄介払いとして暗殺チームへと放り込まれた私の教育係として数ヶ月間といえど甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた人物のものだった。泥水に濡れながら捻れた首と見開いた目は分厚い雨雲を見ていたのか、それとも自身を殺す人物を最期の最後まで視界に捉えていたのか。それは、分からない。濁った眼球に堪った雨水が流れても、非現実の物語で比喩されるような涙なんかには到底見えない代物だった。

 死にたくないと、思った。暗殺だなんて割に合わないことを強要されてその挙句、社会の片隅にも成らない所で惨めに死後硬直を始めるだなんて。そんなの御免だ。
 自身に良くしてくれた人の躯を見下ろしながら、私は自身の行く末に見える死に恐れ慄いた。薄情だと言われようと、躯に重なった幻像に血の気の失せた青白い唇を戦慄かせるしかその時の私には出来なかったのだ。


 嫌だ。止めたい。耐えられない。喚こうと泣き言にしか成らず、生きるには寸分変わらずその道を歩むしかなかった。


 チームの皆、殺しを仕事と完全に割り切ってはいなかった。それでも、己が就いた任務は全うしていた。それに倣うでもなく、命乞いの言葉を吐く喉に銃弾を撃ち込んだり頚動脈を掻っ切ることを、私は喚くことなく済ませるようになった。

 死へと歩むことは依然として恐ろしかった。それでも、生きる術として暗殺者であれたのは、リゾット・ネエロその人を追い始めてからだと思う。標的を卒なく始末することが、返り血に濡れることが、彼の為に果ては私の思いを遂げることに繋がることではないのは重々承知していたが、端金に命を削ることが、暗殺チーム果てはリーダーの為になるのだ。



 遠い昔のことのように、今朝の何の変哲もない会話がぼんやりとする脳裏に浮かび上がる。リーダーの分のカッフェを淹れるのは半ば私の特権になっていて、砂糖の分量だって彼の好みきっちりに加えられるというのに、今朝は何故だかヘマしたのだ。

「カッフェ淹れるの失敗しました」

 苦々しく言った私の手の内の失敗作を、話など聞いていないとばかりにリーダーが取り上げて、私は再度自身のヘマを報告しながらカップに口を付けようとする彼を制したのだが、それでも彼は傾けたそれを喉奥へと流し込んだのだ。そうして彼が言った。

「……どちらにせよ、これがないと一日が始まらないんだ」

 それもほんの少しだけだが、頬を緩ませて、言ったのだ。滅多にお目にかかれないそれは確かに幸せの形をしていたはずだ。



 今朝方吐いた言葉のように「任務失敗しました」と言う私の報告を聞いた彼は、どんな顔をしていたのだろうか。自身の報告の後の声色を確認することも出来なかった。片耳に押し当てていた携帯電話は銃弾の的になって、弾け跳んだ先でスクラップになっていたのだから。――標的がスタンド使いを抱え込んでいるだなんて情報は掴めていなかった。
 既に発現して構えていたスタンドで相手のスタンド使いに応戦するが、歯を噛みしめたままに分が悪いのは分かりきっていた。



 相手のスタンド使いは派手に血をぶちまけて壁の絵となったが、私自身もまた一枚の絵画のように、血の水溜りが出来た煉瓦畳に四肢を放り出したままに動けないでいた。

 ――嗚呼、死ぬのか。混濁する意識の中でぼんやりと呟いてそれから、まだ死なないのかもしれないと錯覚するほどに意識が鮮明になった。
 濁り始めた目を見開いて見た空は憎たらしいぐらいの綺麗な夜空だ。澄んだ宵の空に星が降りそうだなんて思った自身を嘲笑したが、多分頬の筋肉はほんのちょっとも動いていないだろう。頬を撫でる夜風は冷たい。震える自身の睫毛はそれの所為だとは言えないし、喉が痛いのも冷ややかな空気の所為でもない。冬の夜の帳が、死へと向かう私の身体へと緩やかに落ちてくる。

 不意に、人の気配を感じた。其方へと視線を向けたいが、動かせるのは眼球だけで、顔の方向を変えることが出来ない為に確認出来ない。
 私は忙しなく視線を動かしてから、諦めたかのように夜空を仰ぐ位置に戻した。そうして億劫に瞬く合間の狭い視界で景色が揺らいだ。そう思ったら、其処にはリゾットが、いた。

 私の脳は既に正常な働きをしているとは言い難く、私を見下ろすその姿が本物なのかまたは幻想なのか判断が付かない。

「……標的は、俺が始末した。」

 どちらにしろ、リゾットの姿をしたそれは薄く唇を開けて、静かに私がしくじった任務の末を告げた。
 彼の肩越しに見える夜よりも深いその双眸に見下げられたまま、私は自身の醜態を恥じる。今まで手を下してきた死体など比較にならないぐらい、今の私の姿は醜いと感じるからだ。あの日恐れ慄いたそれに似た姿。声を発することも酸素を求めることも出来ぬ使い物にならない喉で叫び声を上げそうになるままに彼を見上げた。


 夜を背負うリゾットの、寄せられた眉根とは裏腹で場にそぐわない感情を孕ませたその視線は、柔らかな労わりと、私が欲しいと手を伸ばしていた確かなものを含んでいた。

「Addio.」

 耳に心地好い低音は、横たわった私の身体を柔らかに抱き抱えるようで。

 涙腺は働くらしい。それか、壊れている。留まり、決壊したように流れた涙はあの日の雨水とは重なることなく、死へと確かに向かっているというのに不思議と恐ろしくなかった。寧ろ、思うのだ。最期に見るのが貴方なら、こんな終わり方も悪くない。そう、死を受け入れようとさえ。今日、この時、皮肉なぐらい綺麗な夜空を背負った彼を見ながら死へと歩み出せるのならば、恐いものなど何もなく、無邪気な子供の笑みを最期に浮かべることさえ私には出来た。

 幸福な死があるとすれば、私はそれを手に入れることが出来たのだ。急激に落ちてくる夜の中、重ねた熱がそれを確かにしたのだから。



(宵は落つる)