わたしはあなたに近づきたい if | ナノ






 リゾット少年はどんよりと厚い雨雲を仰いだままに双眸を瞬かせた。雲間は瞬きの合間に雨粒を降り落とす、ことはなかったが、そう遅くない内に降り出すであろう空を仰ぐのを止め、彼は視線を帰路となる二通りの道へと向けた。何時も通りの道を選んだならば、其処を進めば街中の通りで人通りも多いが時間が掛かる。そうなれば雨に降られてしまうであろう。少しばかり時間を忘れて遊び呆けてしまったと、彼はもう一方の選択肢へも視線を向けた。それは路地裏に入っていく曲がり道だが、其処を通れば確かに帰路に着く時間短縮の道となる。リゾットは路地裏の道の方へと視線を向けたままに、すんすんと鼻を鳴らし湿気た空気の臭いで肺を満たした。雨が降る前の特有の臭いが彼の肺を出入りする。ふぅ、とリゾットは湿気た空気を吐き出して止めたままであった足を踏み出した。それは路地裏へと続く道へと向いている。雨に濡れたくなかったのだ。

 薄暗く人通りも少ない路地裏は決して治安が良いとは言えない。汚れた、いや汚された壁を視線で追いつつ歩くリゾットの足元には、屑籠に入れられることも無いままに空き缶やら生塵が所構わず散乱し小汚い。じめっとした臭いに不快な悪臭が混じった空気は溜まったものじゃあない。それというに、一息毎にその空気で肺を満たさなければいけないので堪らない。彼は鼻の頭に皺が出来るのを感じたままに小走りに歩みを速めた。

 路地裏を真っ直ぐ進んで一つ目の曲がり角を曲がった直後だった。リゾットの視界に人が飛び込んできたのは。壁に背を預けた少女――多分、歳は自分と同じくらい。だと、彼は思った――が曲がった角の向こうにいた為に、彼は突然現れたかの様なその人物に目を見開いて、その少女に打つからぬように小走りであった歩みを慌てて停止させた。少女といえば、曲がり角から急に現れたリゾットに驚くでも無しに、壁に預けていた背を少しばかり離してから彼へと顔を向けて見せた。そうして少女は打つかりそうであったリゾットへと小首を傾げて、口角を柔らかく吊り上げたままに唇を開いた。

「こんにちは」

 少女の鈴を転がした様な声がリゾットの鼓膜を擽った。突然の挨拶にリゾットは呆気に取られたままに、少女の言った言葉を復唱する。形ばかりの挨拶への返答に少女は満足そうでいて、傾けていた首を元に戻すと揺れた毛先からはその場所には些か場違いな良い匂いが漂い、リゾットの鼻先を掠めた。彼は僅かに細めた目でその匂いに、太陽を目一杯受けて干されたシーツに包まった自身を思い浮かべ、また少女の髪色に雨を降り落としそうな曇天を再度意識する。

「あなたの目、きれいね。宝石にはまだ詳しくないけれど、宝石みたいよ!」

 まるで初対面同士ではないように、少女は気を許し綻んだ頬で唇を引き上げた。そうして少女は性急に詰めた距離で彼の目を下から覗き込み、その目を宝石のようだと言って喜んだ。リゾットは急に距離を縮めて覗き込まれたことに驚いて、数歩下がらずとも片足を後ろへとずらし、上体を仰け反らせてしまった。太陽の匂いが近くなる。また、相手が自身の目を覗き込んできたことで彼も相手の目を覗き込むこととなった。自身の目を宝石だなんて例えた少女の目は自分のそれよりよっぽどその例えが似合うのではないか。上手く言えないが、上辺だけではない深い色合いが瞬くそれは、今日が快晴であったらならば太陽の下にきらきらと眩いはずだ。十秒程、二人は互いの瞳を覗き込んでいただろうか。そうしてからリゾットは、少女の瞳の中に映る自身の姿を捉えてハッとした様子で慌てて少女から顔を逸らした。彼の逸らした視線に、少女がくすくすと笑う。

「あなた、迷子?」

「まさか」

「ふーん……。あなた、髪もきれいな色してる。兄さんと似てるわ」

 少女は後方へと距離を取ってから、リゾットの髪を何処か羨ましそうに見つめて言った。己を覗き込む顔が無くなったことで彼は仰け反らせていた上体を戻し、逸らしていた視線を顔ごと正面の少女へと戻してみせた。少女は後ろに手を組んでにこにこと笑んでいる。薄く開いた自身の唇をリゾットはきゅっと引き結んだ。上唇と下唇の合間には自然と隙間が開いてしまったが、何を喋るつもりだったのか自身でも分からなかったのだ。彼が一言喋って以降黙り込んでしまったとしても、少女は気にした素振り一つ見せることはなかった。そんなのお構い無しとばかりに彼女は自身の唇を開いて言葉を発するから。

「あんまり良くないわ」

「……何が?」

「路地裏を通るの。人攫いが出るかもしれないもの。笛吹き男って知ってる?子供は連れ去られるの」

 演技染みて眉根に皺を作った少女は、己の腰に手を当てて立てた人差し指でリゾットに説教をしてみせた。その唇は孤を描いていて、演じ切ることが出来ないでいる。彼は溜息にも似た吐息を押し出して、呆れた様な顔で少女を見返した。少女は小さく息をふっと吐き出して笑った。

「ねえ、あなたの名前を聞いても良い?」

「…………リゾット・ネエロ」

 リゾットは時間にしては短い数秒の間だったが、暫し考えた。そうして考えてから唇を開いた。彼の唇が発した音は彼自身の名前で、少女はそれを聞いて嬉しそうにする。それから少女も自身の名を告げようとしたのだろう。孤を描いていた唇に薄く隙間が出来たのをリゾットの目が見た時、彼の鼻っ柱を雨粒がぽつんっと一つ打った。それと路地裏の奥から人が出て来たのはほぼ同時であった。少女は自身の名を告げようと開いた唇で新たな登場人物へと呼び掛ける。

「チエーロ!」

 ひょこっと路地奥から出てきた少年は、身体を左右にゆらゆらと楽しげに揺らしながら少女の傍らへと歩み寄り、少女と目を合わせていた。ぱちぱちと瞬き同士が会話をする様を何処か居心地の悪い思いでリゾットは自身の足元へと視線をやった。雨雲はまた雨粒を降り落としたらしい。丸く地面の色が変わった箇所がある。

「悪いね、妹が引き止めちゃったみたいで」

 自身へと呼び掛けられたそれでリゾットは雨粒の跡から顔を上げた。そうして己へと向けられているその少年の視線へと自身の視線を打つける。少年の唇は孤を描いていて、成る程その笑みは隣に並ぶ少女に似ている。

「ごめんなさい。急いでたでしょう?」

「……いや、別に」

 確かに雨が降る前にと急いでいたのだが、少女に問われたリゾットは正直に答えるよりは頭を小さく振って否定することを選んだ。ぽつぽつと雨が降り始める。それは少女の頬も打ったようで、彼女は小さな悲鳴を上げた。隣の少年はそれを笑う。

「直ぐに本降りを始めるだろーね。濡れ鼠になる前に帰るべきだ」

「そうなの?本当にごめんね。やっぱり急いでたでしょう?」

「…………まあ」

 そして雨粒はまたリゾットの鼻っ柱へと打つかった。彼は二三度ぱちぱちと瞬いた後、思い出したかのようにその場に止まったままであった足を踏み出した。少女と少年はそれに道を譲る。右と左に分かれて離れた二人の間に出来た道をリゾットは抜けながら、半ば無意識に少女の緩んだ頬へと視線を向けた。ぱちっと打つかった視線に少女は目を細めて笑い、控え目に手を振って見せた。流石にリゾットがそれに手を振り返すことはなかったが、彼は少し俯いて自身の足元へと視線を固定したままにその足取りを速めたのだった。


 そうしてリゾット少年が角を曲がって、その先から確かに気配が遠のいた事を確認した二人は、照らし合わせたかのように互いに唇を開いて話し始める。

「標的は?」

「ゴミ箱の中。彼が調べることはないだろー。……ソーレ、何話してたわけ?」

「何でもいいじゃない。ちゃんと引き止めたでしょ?」

 ソーレの返答に唇を突き出して不服そうにするチエーロが、自身の旋毛を打った雨粒と同時に己の腹の虫の音を響かせた。彼女はそれをくすくすと笑ってから彼の片手を取って自身の手と繋ぐ。

「さ、帰ろ?」

「よし、帰るかあ。……今日はプッタネスカ食べたい!」

「三日前もプッタネスカだった」

「食べたーい!」

「んもうっ!」

 空は本格的に雨粒を降り落とし始めた。厚い雨雲の下で帰路を急ぐ各々三人は、それぞれの胸中に思うものを持ちながら雨粒に打たれる。塵箱の中の死体も蓋を打つ雨粒の音を聞いているのだろうか。そんなこと、誰も気にしてはいなかったが。