天国の欠片 | ナノ






 カリチェは煙草は嗜まない。それとあって、心理的、身体的な仕組みは理解は出来るのだが、情事後に煙草を吸う男の心持ちが分からず共感は出来ないと独りごちた。俯けの身体に両の手で頬杖を突きながら、彼は肺いっぱいに女の香水の匂いを吸い込む。香水に明るくない彼でも、それが上等な品であることは察することが出来た。
 彼は華の香りの混じった吐息を押し出しながら、視線を自身の真横に寝そべる女へと向けた。しっとりと艶やめかしく濡れた肌。情事後のその肌をカリチェ同様一糸纏わぬままに曝け出して、女は指先で彼の髪を一房掴み引いた。カリチェは薄く唇を開く。

「ヴィニャ。何で髪切ったんだ?勿体無い。腰の辺りで揺れている方が、お前には似合ってたよ」

「普通は、短いのも素敵だって褒めるもんよ」

「その長さじゃ、シーツの海に泳げないだろ?波間を漂うような色っぽさが良いんじゃないか」

「誰かさんが行為中に手を突いて痛かったの。……嘘よ。シャーポの好み。彼が短い方が好きらしくて」

「シャーポ。えー……刈り込みの?そのシャーポってぇ奴とは馬が合わないだろうなあ」

「あら、残念。まあその刈り込みはスコントだけどね。シャーポは髪を後ろに撫で付けてる」

 カリチェは短くなってしまったヴィニャの髪へと唇を寄せて、その側に在る耳朶を上唇と下唇で柔く食んだ。ぬらりと舌先を肌の窪みに合わせる様に這わせて、そのままに囁いた。何て事は無い。色気の欠片も無い仕事の話である。
 ヴィニャは目を細めたままに何時もの場所。と、呟くように彼へと返事の言葉を返した。サイドチェストの一番上。その引き出しを開けると、数枚からなる紙の束があり、カリチェはそれらを全て手に取ると引き出しを開けたままにぺらぺらと捲くり、中身を確かめているようだった。全ての活字へとサッと目を通した彼は、下唇を一舐めしてからそこに薄っすらと隙間を作った。

「一枚、故意に抜いてるだろ」

「あらカリチェ、欲しいの?」

「欲しいさ」

 カリチェとヴィニャは悪戯な笑みを互いに打つけ合った。叩き付けるように床へと放られた紙は抗議の声にもならない音を微かに立てたが、ベッドの上の男女には何を一つ取ってもお話しにならない。
 未だ燻っていた余韻のままに獣の如き行為に腰を揺らしながら、二人は明日には会うことになっている互いの恋人を、熱を持った息を吐き出しつつ嘲笑った。



 翌日、カリチェは揺れる銀髪が掠める黒の双眸など気にもせずに、その目前へと揃った書類を放り出した。その紙へと伸ばした指先は明らかに男のそれで、彼が遠くに意識を飛ばしながら口を開くのも無理は無い。カリチェは今日一日の予定のことで頭がいっぱいなのだ。それを察してか、リゾットは放り出された書類を無言で手に取り、中身を確認したままに何も言わなかった。態々話を振っても、何も良い事は無い。それだというのに、喋り出すのはカリチェらしいといえる。相手の意見など知ったことでは無い。

「じゃ、オレ行くよ。この後直ぐにデートなんだ。フラゴラちゃん。小動物を思わせる言動でさあ、もうっ、可愛くってたまらない。潤んだ瞳で上目遣い。捕食者としてのオレを抑えに抑えた一週間……。今夜は、決める……!」

リゾットは興味無さ気に視線をちらりとやってから、薄く唇を開いた。呆れたような声で言う。

「ジンクスはどうした」

「そんな不確かなものを信じてるのか、リゾットは。お前ともあろう人間が?笑わせるなよ」

「そうか、健闘を祈る」

 カリチェはリゾットの言葉を鼻で笑ってから踵を返した。そんな彼のシャツの襟に、ルージュの口紅で描かれた唇の形。それを目にしながらリゾットは瞬きを一度した。同情の眼差しにも似たそれをやりながらも、それを教えてやらないぐらいには、彼も悪乗りをする人間である。ジンクスとは、恐ろしい。