サルディニアの空は高い。それを仰ぐ俺があの日語ることの出来なかった、記憶の一部。それは何の変哲も無く、それでいて尊く、ありふれた幸せを孕む、日常だ。
尚も書類の活字を追うローザの視線に、俺は再度彼女を呼んだ。決して俺の声が小さく聞き取れないものであったわけでも、それほどまで彼女がその行為に没頭していたわけでも、無い。二度目の呼び掛けも反応の無いままかと思ったが、たっぷり空白を空けた彼女は、ゆっくりと文字溜まりから顔を上げたのだから。俺は、もう一度呼ぶ。
「リーダー」
「…………」
「?」
視線を合わせながらも、彼女は寄せられていない眉のままに、思考に耽っている様子だった。その様に怪訝な表情を浮かべる俺に、彼女はハッとした様子で小さく頭を振る。
「あぁ、いや。なんでもない」
そうは言うものの、俺は訝しむ視線を取り攫う事は出来ず、三度も呼び掛け尚も用件を言い出さない俺に、彼女は漸く、観念したように言った。
「お前にリーダー、なんて呼ばれるのは慣れないよ」
名前で呼んでくれないか。そう言ったローザに、俺は困った。俺は確かに暗殺チームに所属していて、彼女は其処の者を纏め上げる人物。今までのように呼んでも、良いのだろうか、と。
「だが、……」
「ベッラやグリチネだって、名前で呼ぶことがある」
呼びたくないわけでは、勿論無い。本人がそこまで言うのだ。呼ぶ他ないだろう。俺は薄く開いた唇で彼女の名を呼び、その後に部屋を訪れた用件を取って付けた様に言った。色気の無い仕事の会話。狙う人物の近辺状況と日取りを説明するその口は、思わず零れたという様に、何の脈絡も無くその言葉を吐いた。
「お前の声は心地好い」
思わず見入ったローザは何ら変わらず、その口で殺害場所について指定してきた。俺の返事は、小石に躓いたように前のめりなものだった。それを笑う彼女の声が、好きだった。
弾を込めて構えた。狙いは頭部へと定めている。銃声音。イヤーカバーのお陰で、鼓膜への衝撃は最小限だ。それの片側を持ち上げて、彼女へと呼び掛けた。
「ローザ」
「駄目だ」
ローザはイヤーカバーをしたままで、首を振ってその意を示す。彼女の見据える先には、無傷のままの的がただただ其処に在る。では銃弾は何処へと消えたのか。人型の的の頭部を狙った。つもりだったので、その付近の壁をジッと凝視する俺に、ローザが的の手前の床を指差した。其処に在る穴は、俺が拵えたばかりらしい。俺はカバーで再度自身の耳を塞いだ。構える。銃声音。カバーを外さないままに、彼女を呼ぶ。
「ローザ」
「駄目だ」
首を振られた。構える。銃声音。両耳からカバーを外して、彼女を見る。目は口ほどにものを言う。俺の視線は彼女へと、訴えかけていたらしかった。そもそも、そろりと片手が彼女へと伸びていたらしい。ローザは俺の手の甲をピシャリッと叩いて、自身のカバーを外して首を振る。
「駄目だ。狙い通り撃てるまでは、お預けだ」
残酷な言葉を容易く吐いた彼女は、もう聞かないとばかりに、カバーで両耳を塞いだ。それを見届けて俺は、倣う様にまた両耳を塞ぐ。狙い定め。構える。銃声音。あ。俺は胸中で間抜けに呟いた。が、傍らに立つローザは唇を吊り上げて嬉しそうだ。真っ直ぐに見据えた的には、漸くぽっかりと穴が空いていた。
「……ローザ」
「リゾット、良し」
彼女が漸く俺の名を呼んで、視線を合わせてくれた。ちらりと横目で見た的の頭部には穴。狙ったのは心臓。射撃の腕を磨くのは、次の機会で良いだろう。
水音が響く。ローザが向けた視線の先では、雨粒に濡れた窓硝子。
「雨が降っている、ようだ」
「……そうだな」
「お前を拾った日を、思いだすよ」
しとしと降る雨粒が窓硝子に打つかり、流れる。そうだ、あの日は雨が降っていた。しとしと。降っていた。俺を見下ろす無感動な目の面影は、今は微塵も無い。涙を零したりしないが、彼女の角膜を覆う涙は、普段より僅かばかり多かった。血色の良くなった両頬に笑みを浮かべた彼女は、俺を見下ろす。
「出会えて、良かったと思う」
「俺もだ。……余裕そうだな」
ローザを見上げながら言い終わるか否かで突き上げた俺に、彼女はビクンッと身体を震わせた。あの日の俺には、こうして彼女を見上げる日が来るだなんて、思ってもいないことだろう。
「そんなわけないだろ……ッ」
彼女の嬌声は麻薬のようだ。
瞼を開けると、真っ直ぐに此方に向いたナイフの切っ先が確認出来た。右の眼球の僅かばかり上空にいるそれ。俺は一度瞬いて、それを持つ人物へと視線をやる。ローザは満足そうに笑んでいた。その頚動脈には、彼女の持つものより刃渡りの広いナイフが添えられている。それを持つのは俺だ。彼女は唇を吊り上げる。
「問題無いな」
「……何がだ」
彼女はナイフを俺の眼球から遠ざける。ローザが片手に持ったナイフを見ながら、俺は自身の持っていたそれをサイドテーブルへと預けた。そして問う。彼女は笑うだけで俺の質問には答えない。その代わり、ナイフを床へと放り投げ、俺の頬を両手で包み込み、唇を重ねた。彼女の柔らかな唇がたった一度で離れようとするものだから、俺はローザの後頭部を押さえ込み何度も喰らった。
「……リゾット」
唾液で艶かしく潤った唇が、俺の名を紡ぐ。ローザはただ笑うだけで、言葉を続けなかった。その翌日、彼女は死んだ。