回り灯篭 | ナノ






 これは、俺がサルディニアの空を仰ぎながらも語れなかった、記憶の一部だ。何の変哲も無く、それでいて尊く、ありふれた幸せを孕む、日常だ。




 調理された魚が、白い皿の上に横たわっている。所謂白身魚のソテー。なの、だろう。照明の光を受け表面できらきらと輝くのは、ナイフの切っ先を逃れた鱗。パリパリどころかガリガリに焦げている皮。鋭利なフォークを無理やりにその身へと潜り込ませる。表面は殆どが炭化しているというのに、その身は血を滴らせるぐらいに生焼けだった。これは、ある意味、才能なのかもしれない……。

「リゾット。無理をする必要は無いよ」

 ローザは、俺の目の前に鎮座する物体と同じ物を見下げて眉を寄せていた。失敗作だということは、彼女にも理解出来ていたらしい。対面する席に座った彼女の眉間の皺を見止めた後、俺は残念な出来の白身魚のソテーを見下げた。悲しいほどに食欲をそそらないそれをギコギコとナイフで一口大に切り分け、フォークで一思いに刺す。切っ先を辿り流れた血の雫と、パラパラと剥がれた焦げの欠片が白い皿を汚した。口元へと運んだ。ハーブで隠れきれていない、いや寧ろ悪化している臭いが鼻腔を掠めた。それでも、俺はそれを口内へと放り込んだ。噛んだ。噛んだ。噛んだ。嘘だ。噛めずに、丸呑みした。

「……ローザ」

「何だい」

「……不味い」

「知ってる」

 彼女は席を立ち、掛けてあったコートを羽織る。何時の間にか用意されていた俺の分も、投げて寄越してきた。拾われたその日に着ていた衣服は、気付いたら捨てられていた。

「外食しよう。異論は」

「無い」

 そして二人、テーブル上に生塵の乗った皿を置き去りにして、通りで話題のリストランテに行った。そこで食べたイサキの香草焼きは美味かった。多分、比較対照の所為だろう。ローザは笑っていた。リゾット。何だ。お前は料理は出来るか?あんたよりはな。じゃあ、今度からお前が料理当番だ。異論は?無い。だろうね。ローザは、笑っていた。




「まるで犬みたいだ」

 俺は眉を顰めた。ソファに座って本を読んでいたらしいローザは、自身の隣を手で叩いた。つまり、其処に座れと。別に反抗するつもりも無かった俺は、それに素直に従った。俺の体重でソファがその分沈むかどうかの瞬間に、ローザは俺が首に掛けていたバスタオルを奪い取るように手に取った。俺はその時、シャワーを浴びたばかりだったんだ。自身の毛先に滴っていた水滴が、撥ねたのを感じた。その直ぐ後に、俺の視界はそのバスタオルで塞がれることになる。意外にも、繊細な手付きでローザは俺の髪の水分を拭っていった。

「リゾットの髪は綺麗だな」

「……あんた――」

「うん?」

「髪の方が綺麗だと、……思う」

 バスタオルの隙間から、目を丸くする彼女の姿が確認出来た。そんなものを見てしまえば、自身が吐いてしまったその言葉に途轍もない羞恥を感じてしまう。俺は唇を真横に固く引き結んだ。

「お前もイタリアーノだったんだな」

 くすくす笑うローザの声が、耳に心地好かった。だから、固く引き結んだ唇が、ほんの僅か緩んでしまう。

「私はリゾットの髪、好きだ」

 薄く開いた自身の唇は、何を問う為に開かれたのだろうか。結局、何も発せずに閉ざしてしまったが、あの時、俺はきっと、好きの対象について問いたかったのだろう。髪だけなのか、と。




 深夜の室内を包む静寂。それを破らずとも、鼓膜は小さな震えを感じた。眠りに就く前の身体を起こした俺は、思わず部屋の扉へと視線を向けた。ローザが部屋の前を横切る足音。それに鼓膜が震えたのだろう。俺はそれを訝しむ。彼女は、足音一つ立てない人物だったからだ。
 彼女はリビングの窓際に立って、月を見上げていた。欠けた月の光が彼女を白々と照らす。声を掛けることを躊躇う俺へと、彼女は振り返って言った。

「添い寝が必要か?」

「……要るのは、俺じゃあないだろ」

「おっと、反抗期だ」

 くすくす笑って窓際から離れたローザは、その足でキッチンへと向かった。俺はその後ろを着いて行く。彼女はグラスを二つと、良く冷えた白ワインのボトルを手に俺へと向き直る。

「今夜はアルコールに抱かれて眠るさ」

 物寂しい笑顔だ。




「雨が降るみたいだ」

 俺の隣で、空を仰いだローザが呟く様に言った。彼女に倣う様に俺も空を仰ぐが、澄んだ青が拡がる其処は雨粒を降り落とす素振りの一つも無い。だというのに、彼女は同じ言葉をもう一度吐く。空ではなく、俺を見上げて彼女は言った。

「走ろうか。いや、どうせ濡れるだろうが」

「降るか?」

「降るね」

 ローザは、俺の手を取り少しばかり駆け出した。本当に降るのだろうか。脚を動かしながらも空を仰いだ俺の鼻頭に、何かが打つかる。それが雨粒だと俺が気付くと同時に、それらは堰を切ったように通りを行き交う人々を濡らし始めた。ローザの言った通り、雨が降った。日照り雨というやつだ。二人、家まで駆けたが家の鍵を取り出す頃には濡れ鼠になっていた。

「びしょびしょだ」

 床に水溜りを作りながらも、多少はタオルで身体を拭いた。ローザが俺を見る。

「シャワーを浴びてくるといい」

「……先に浴びろ」

「じゃあ、一緒に浴びようか」

 俺はギョッと目を見開いてローザを見た。彼女は丁度顔を拭いていたので、表情は確認出来なかった。タオルの下で彼女は悪戯に笑っているのだろう。そう思い、俺は視線を彼女から逸らしながら、返事のような言葉を吐く。

「……からかうな」

 そう。だなんて言ったローザはバスルームへと踵を返した。後ろ手に手をひらひらと振ったままに、言うのだ。

「誘惑のつもりだったんだが」

 水分を吸ったタオルをそこいらに放って、ローザの背を追ったのは言うまでも無い。