幸福論 | ナノ






 カツンッ、とポケットから零れ出たそれは床に打つかった。それが立てた音にセレーノは、同じ場所から取り出した携帯電話を片手に移動する発生源へと視線を合わせる。床へと打つかった後、具合が良かったのかそれはコロコロと転がり、やがてカツンッと小さな音を立てて上等な靴に衝突し、伸びる移動距離に終止符を打った。コインは、表を上にしてパタリと倒れてしまったのだ。
 先日ホルマジオから貰ったコインの存在を、今の今まで彼女は忘れていたようだ。パンツのポケットの中にずっといたコインは、洗濯機でガラゴロ回される中でも、ずっと其処にいた。風に揺られて水気を抜かれる時も、アイロンで皺を伸ばされる時も、彼女が携帯電話を其処へと滑り込ませる際にも、其処にいた。そして取り出す際に零れ出たらしい。

「賭け事に興味あったか?」

 自身の靴に打つかったコインを身を屈めて拾い上げ、それの表と裏を見たプロシュートは、セレーノへと聞いた。彼の指先で遊ばれるコインを一視した彼女は、肩を竦めた後、貰ったものであることを告げる。あぁ、ホルマジオか。と、呟くように言うと同時に彼の親指で弾かれたコインが放物線を描いて、彼女の元へと帰って行く。受け取ったそれをセレーノは、同じポケット内へと滑り込ませ、一度頷いた。今度は忘れない。という確認だろう。

「なんだかペッシ、幸せそうね」

 幾分遅れてリビングにやって来たペッシへと視線をやった後、彼女はプロシュートへと言った。ペッシはリビングの入り口で、似合わない薔薇の花束を胸に抱えて照れ臭そうに身じろぐ。

「このマンモーニが。少しばかり微笑まれたぐらいで舞い上がりやがって」

 つい先程までコインを弄んでいた指先で、取り出した煙草を挟んでプロシュートが言う。その言葉から連想し思い浮かんだままに彼女も言った。

「あぁ、この間言ってた子。その薔薇は今から渡しに行くの?」

「渡しそびれたもんだ。情けねぇ。それでも男か」

「勇気がいるんだよ。プロシュートには分からないよ。ねー、ペッシ?」

 ペッシは困ったような笑みを中途半端に浮かべて返した。そんな風に言うセレーノだって、彼にしてみたらプロシュートと同等であったからだ。兄貴の横に立っていても見劣ることは無く、それどころかお似合いに見える。そう思ったペッシは同意を求める彼女に、何とも返せない。代わりと言ってはなんだが、自身が抱える花束の今後についてを口にした。

「コレ、リビングにでも飾るよ……」

 そう言ったペッシをプロシュートの長い足が蹴るのは早かった。数枚の深紅の花弁を宙へと舞わせたプロシュート。飴と鞭。それの鞭が撓ったのだ。彼は床へと尻を突いたペッシを逃がさない。花束を間に挟んだまま互いの額を合わせて、有り難いお言葉つまり飴をやる。
 一分もしない説教が済んだプロシュートは、ペッシの抱く花束から花弁の欠けていない一輪をスッと抜き取った。それは何と無しに二人のやり取りを見守っていたセレーノの目前へと差し出される。

「え、いらないよ」

 そう言ったセレーノに、プロシュートは片眉を上げる。今度は彼女に対して説教を始めるかと思われたが、彼はすんなりと差し出したものを己の手元へと戻した。そして揺れる花弁をほんの少しの茎を残して折る。彼はそれを指先で掴んだままに、彼女との僅かな距離を詰めた。
 彼の動向を視線で見守るセレーノを他所に、プロシュートは彼女の右耳の辺りの髪の流れを耳へと掛けるように梳いた。と、同時に差し込まれるそれ。

「プロシュートに愛される女性は幸せだろうね」

 指先で撫でた薔薇の花弁は心地好い。セレーノが自身へと飾られた華に触れながら言えば、プロシュートからはこう、返って来た。

「おめーはずっと幸せだってことだな」

 勿論、本気のそれじゃあない。

「まずはペッシが一人前になること。そうしたら、プロシュートは幸せ、かな?」

「どうだろうな。マンモーナも、此処にいるからな」

 セレーノがプロシュートの横っ腹を小突いた。彼女の髪に挿された薔薇の花弁が揺れるのを見ながら、なんだかペッシは頬が緩むのだが、尻を突いたままの彼にやがて再度鞭が撓ることだろう。