幸福論 | ナノ






 入手困難であったが、独自の経路を以って漸く己の手中に納まった古書。それから顔を上げ、鼻腔を掠めた香りの発生源へと視線を向けたのはイルーゾォだ。自身の腰を静めるソファの背後を通り過ぎたセレーノを見て、彼は香りを一回スン、と嗅いだ。イルーゾォが脳裏に浮かべた感想を、言葉は少し違えど音声にして発したのは、別のソファに寝転がっているホルマジオ。

「セレーノ、ソルベとジェラートの匂いがするぜ?」

 朝早くに趣味のギャンブルで大負けしたホルマジオは、暇を持て余していた。それとあって、面白くなりそうな事は些細な事でも引っ張り出して突付きたい。
 ソファを通り過ぎて数歩後に投げられた言葉。それに歩みを止めたセレーノは、ソファへと寝転ぶホルマジオへと視線をやった。感じる視線を辿れば、イルーゾォも自身を見ているではないか。一人は唇を吊り上げている。何一つ面白いことはないのに。と、彼女は軽く苦笑いをしながら言った。

「ジェラートお勧めのシャンプー貰ったの。上等な」

「あぁ、それで」

 納得するイルーゾォが二度頷く向こうで、ホルマジオは心底つまらないといった顔を見せる。期待に添えなくてすいませんね。と、セレーノは笑った。そして手前にいるイルーゾォの手元の本を不意に視線が捉えて、目を見開く。まるで子供のように目を輝かせる彼女に、イルーゾォはそういえばまだ言ってなかった。と、胸中で呟く。彼女も、彼の手中に収まる古書を切望していた人間の一人であったのだ。

「それ!」

「見終わったら貸すよ」

「イルーゾォ愛してる!」

「ばっ、止めろよ!」

 セレーノは感激の為にイルーゾォへと駆け寄り、ぎゅうっと両腕で抱き締めた。彼女の行動に彼が声を上げる。ホルマジオは寝転がったままイルーゾォの慌て様を視界に入れて笑った。ソファへと座ったままに抱き締められた彼は、後頭部へと感じる柔らかな感触に顔を赤くしている。

「おー、おー、幸せそうな顔してんなあ?」

 ホルマジオがイルーゾォを茶化して、彼からキッと睨まれている。赤面でそんな目をされても怖くもなんとも無い。そこいらの猫の睨みの方が効くぜ?とばかりに、ホルマジオは笑う。
 自身の腕の中で足掻くイルーゾォを漸く開放してやったセレーノが、ホルマジオを指差した。いや、良く見れば指は彼ではなく、彼の直ぐ側に落ちている物体を差している。

「ホルマジオ、の?」

 彼女の指の差す方を辿ったホルマジオは、身を起こしそれを手に取った。それは先日の戦利品の一部のチョコラータだ。彼女の視線が釘付けになっている菓子を、ホルマジオは親指で弾いた。それは垂直に空中へと跳び、やがて重力に従い落ちて彼の手中へと戻る。にやり。彼は唇を吊り上げる。

「セレーノ、賭けだ」

「大負けして来たくせに」

「これで勝利の女神とヨリを戻すんだよ。んでもって大勝、俺は幸せいっぱいだ」

 彼の台詞を彼女は鼻で笑った。イルーゾォが呆れた顔で賭けの内容を尋ねる。それにホルマジオは自身のポケットへと手を突っ込んで、取り出したのは何の変哲も無いコイン。大方、今朝負けてきた店の物である。それが何処の店なのかは近くで見れば分かるだろうが、離れて立っているセレーノには確認出来ない。ホルマジオはどちらの面が表か決めて、翳して見せた。

「自身満々なくせに二択の賭けかよ」

「うっせえよ」

 ピンッと弾かれて、先程のチョコラータ同様に垂直に空中へと跳ぶコイン。菓子と違ってクルクルと回りつつ、落ちる。やがてホルマジオの片手がそれをもう片手の甲へと隠す。勿論イカサマは無しだ。二択のそれから、深く考えることも無く彼女は裏を選択して口に出した。スッ、と除かれる彼の片手。彼の手の甲へと鎮座するコインが見せる面。

「ホルマジオ、溜息吐くと幸せが逃げるよ」

「くっそ、嬉しそうな顔しやがって」

「チョコ、ちょーだいな。不運なホルマジオさん」

 ホルマジオの親指はチョコラータを彼女へと向けて弾いた。それは放物線を描いて彼女の手中へと収まる。彼女の指先が包みを剥がして口内へと放り込んだそれは、直ぐに舌の上で溶けて無くなってしまった。

「可哀相なホルマジオには、チェーナの要望を聞いてあげましょう」

「え、ずりぃ!」

「不幸中の幸いだなあ」

 ホルマジオが料理名をセレーノへと告げる。彼はそれのついでとばかりに賭けに使ったコインを彼女へと向けて弾いた。彼女は受け取ったコインを無造作にポケットへと放り込んで、元々行こうとしていたキッチンへと向かった。献立は少しばかり変わってしまったが。