ぺたりと鏡面に手を付いて其処を覗き込んでいるイルーゾォの視線の先で、片耳に携帯電話を押し当てたフューメは、任務完了の報告をしながら足元の死体を見下げていた。彼女は返り血一つ浴びていないが、ターゲットの死体が伏せる床にはそれのぶちまけた血で、大輪の華が描かれている。
終了した会話に携帯電話をポケットへと仕舞った彼女は、床の画を踏まないようにパンプスでステップを踏み、ベッドルームの壁にある姿見へと近付いて行く。いや、鏡じゃあなく、俺にか。とイルーゾォは鏡面から上半身を出して、彼女を迎えるように両腕を開いた。彼へとフューメは飛び込んで抱き止められた。ん。と、小さく返事のような声を腕の中で上げた彼女に、彼はそのままで、自身のスタンドを用いて鏡の世界へと立ち戻る。
「疲れた?」
「疲れたあー。帰る」
イルーゾォが覗き込みながら問えば、フューメは彼の毛束を指先で遊びながら返事を返した。その後にくんくんと匂いを嗅いで彼の使っている洗髪剤の品名を口にして、フューメも同じだろ。と彼が苦笑しながら言う。
「アジトに帰る?」
「イルーゾォのアパート」
「疲れてるんだよね?」
「余力は残してる」
やっだ、シャワーを浴びる余力のことだけどー。と言ってフューメは緩むイルーゾォの頬をペシリと叩いた。あまり痛くはないそれに、痛いと訴えて彼は腕の中の彼女を解放する。それでも、彼の左手と彼女の右手は指先を絡ませて、其の様を見せつけていた。
「ね、イルーゾォ。鏡買って。これぐらいの」
フューメは開いている左手でこれぐらい、と大きさを彼へと示して見せる。手の平に収まるぐらいのそのサイズに、それぐらいの物なら幾つか既に在るためにイルーゾォはそれでいいかと尋ねた。ら、彼女に横っ腹を小突かれた。
「デートも兼ねてるんだから、察するべき」
「あー、ね」
そして彼等はゆったりとした足取りで帰路に着く。人っ子一人いない路地を何でもない会話を交えながら歩み、時折固定されている小石などにフューメが躓きそうになるのをイルーゾォが支えている。
前日の雨に出来た水溜りを前方に発見した彼女が、それを指差して彼を覗き込む。その唇が開いて問うのは、イルーゾォのスタンド能力の許容範囲。つまり、鏡の定義とは如何に。人の姿や物の形を映し見る道具。非番の日、自身にとって鈍器でしかない分厚い辞書を気まぐれに捲ってみたら、鏡の単語の項にはそんなことが書いてあった。
「水溜りにだって、姿映るじゃん」
「俺の成長度合いによるんじゃないか?」
「今は無理でも、何れは水溜りから飛び出せると」
「窓硝子とか、な。水溜りは許可しない」
繋いだ手のままに、小さな水溜りをぴょんっと跳び跨いだフューメと、彼女に合わせてその隣を歩むイルーゾォ。鏡に纏わるものと言えば色々あるが、彼自身だってそうだろうし、また彼の側に付いていて離れない彼女だって、そうである。
「じゃ、イルーゾォにキスする許可ちょーだい」
「今更じゃないか」
「うん、じゃあする」
泥気を含まない澄んだ水面へと、唇を重ねる彼と彼女の姿が映り込む。少しばかり身を屈めるイルーゾォに、僅かに背伸びをするフューメ。それをちらりと視界に入れることが出来たのはイルーゾォだけだ。フューメは文字通り彼の目と鼻の先で、瞼を閉じているのだから。
〔fine〕