鏡にまつわるエトセトラ | ナノ






 壁掛け鏡や手鏡、コンパクトミラーに姿見。あらゆる種類の鏡で溢れかえった個室。お気付きかと思うが、此処はイルーゾォの私室である。ぐるりと部屋の中を見回すこともないが、部屋の持ち主は留守らしい。分かっていますとばかりに扉を蹴り開けたフューメは、住人の居ない部屋の中をズンズンと進んで行く。幾つも在る鏡の中でイルーゾォの一番のお気に入りの鏡の前に立った彼女は、鏡面を覗き込んで口を開く。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰」

 にんまりと唇が吊り上がっている様から、明らかに戯れである。彼女は数秒待って、返事が無いことに少々の苛立ちを感じた。ムッ、と唇を突き出して不機嫌になったフューメに、慌てて鏡面から上半身を飛び出させたのは勿論イルーゾォ。

「台詞は?」

「えーと、……御后様、世界で一番あなたが美しい」

 イルーゾォは言い終わると共に、自身の失態に気付いた。というのも、フューメが見るからに機嫌を悪くしたからだ。彼女の纏う雰囲気が、実際は鳴らなかったがドンッという擬音を立てて、明らかに重くなった。イルーゾォの背中を、冷や汗がツゥと背骨をなぞる様に流れる。何か言わなければ、と思う程に言葉は出てこないし、彼女の求める正解がちっとも思い浮かばないために、時間切れ。フューメはイルーゾォの右脛を蹴り上げた。

「痛ッ」

 痛がる自身を冷ややかに鼻で笑った彼女を、屈めた身体のために上目でイルーゾォは見る。両手を腰に当てて、少し仰け反り気味で自身を見下す彼女はまさに、御后様であった。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰」

 同じ質問である。しかし、彼は未だ正しい返答が思い浮かんでいなかった。そのために屈めた身体を瞬時に正して、後ろへ数歩下がってみせる。左脛まで蹴られたくなかったのだ。だが、彼の左脛への心配は杞憂に終わる。何故って、僅かに助走を付けたフューメは、膝で彼の顎を蹴り上げたのだから。舌を噛むことは逃れたものの、脳天へと突き抜ける衝撃に彼は仰け反り、そのままに背中から床へと倒れることになる。

「気絶してもいいけど、チェーナまでには起きてよね。私払う気ないし」

「……痛いんだけど」

「だろうね」

 よいしょっ、と。そんな声を上げながらフューメはイルーゾォの胸の上へと馬乗りになった。彼は見上げた視界に、彼女の吊り上がる唇を見る。詰んだ。と、彼が思った瞬間に部屋に響くのは扉を拳で打つ音。所謂そのノック音はフューメの用事を思い出させるに至った。彼女は、忘れてたぁー。と間延びする返事を、扉の向こうに立っているであろうリゾットへと投げた。

「任務。イルーゾォと」

「フューメと」

「リーダー、書類はそこにでも置いといてぇー」

 紙が擦れる音。床へと置かれパサリと立つ音。踵を返し帰って行くであろう彼の足音だけは、無音であった。

「さて、」

 彼女が発した言葉に、イルーゾォは咄嗟に両腕で自身の顔を庇うように動かした。のだが、フューメはその腕を打つでも無く、かと言って他の場所に攻撃するでも無い。ただ、彼の組んだ両腕に自身の額をコツンッと当てた。

「フューメ」

「……え?」

 彼女は自身の名を呟いた。それに彼は聞き返すように言葉を漏らす。そしてもう一度同じ様に自身の名前を呟くのだが、イルーゾォにはその行為の真意は分からない。

「正解。台詞の」

 それに、あ。と言いそうになった口を慌ててイルーゾォは閉じた。
 美的感覚も人それぞれであるし、今現在世界に存在している者全員の容姿を把握しているわけもない。屁理屈のようだがそれでも、鏡の単語を自身の名前と入れ替え、形容詞を可愛いにしたならば、彼女の名前を呼ぶと言うのに。服越しに感じる彼女の肌から、病症の熱のような温度を感じて、そう思わずにはいられなかった。