欠片 | ナノ






 物心ついた時には、父も母もいなかった。いや、いなかったというのは正しくない。その人が母ではなかろうかという人物はいた。彼女は自身が母であると名乗りでなかったし、私に言い聞かせることも無かった。それは別段寂しいことでもなんでもない。
 私の周りには女性が溢れていた。誰もが舌っ足らずな幼い私よりは年上で、何よりも"女"だった。彼女達は普段(―仕事の時だ)はまさしく"女"だったのだが、幼い私の面倒を良く見てくれたし甘やかしてくれて、その僅かなばかりの時間は"母親"だった。大勢の母親に囲まれ、一人の母親も良くしてくれた。幼い私はどうも彼女達の心の安らぎになっていたらしかった。私もそれを嬉しく思うと同時に、彼女達の心労そのものの原因を取り除いてあげたいという思いだった。しかし、それは同時に彼女達の職を奪う行為になるために私は何も出来ずにいた。
 そういえば、私は世の中には認知されていない存在だった。彼女達に比べれればまだまだ幼い自分も随分と成長したころには進んで彼女達の手伝いを申し出ていた。とはいっても私に許されることは存在を晒さない程度の裏方作業。彼女達以外に存在を知られない為に細心の注意はされていた。彼女達は私の身を案じてくれているらしかった。私はやはり彼女達の職が嫌いだった。
 それは酷い天候の日のことだった。私は仕事前の身支度を任され、何人かの髪を梳かし整えていた。彼女達の髪は綺麗だった。長い人も短い人もいたが総じて綺麗だった。皆美容には気を付けていた。私はというと、そうでもないので癖のある髪の毛は伸び放題で前髪なんて目の所だ。彼女達がそんな私の髪を梳いてみたり撫でてみたりするのを目を細めて感じていた。不意に、部屋の外が騒がしくなる。廊下をばたばたと走ってきた彼女は慌しく口を動かす。雷が落ちたが、私には音が無くなった。
 私を抱き留めようとする腕を振り払い、廊下を走った。何人かがその部屋の前で慄いている。私は掻き分け部屋へと飛び込む。赤い絨毯の上へ四肢を投げ出し事切れている彼女に縋り付いた。

「お母さん!」

 彼女の返事をなかった。彼女が生きている間に言えなかったそれを何度も何度も叫ぶが、彼女が自身の名を呼んでくれることも、抱きしめてくれることも永遠にもう無いのだと分かってしまった。酷い天候だ。落ちた雷に浮かび上がる男は目を見開いていた。


 その日は晴天だった。相変わらずの酷い髪は殆どそのままに結われただけで、前髪は鼻筋を伝い表情を隠している。整えた服装と僅かばかりの荷物の詰まったトランクで私は彼女達の見送りを受けていた。名残惜しむ抱擁を抱きとめながら今までの感謝を告げる。そしてその腕をするりと抜けて歩を進める。
 私はその日、生まれ育った娼婦館から初めて外の世界へと出た。行く道は、あの日に決まっていた。あの、酷い天候の日に。