巡った世界で彼と彼女は | ナノ






 リゾット・ネエロは夢をみる。
 "夢"と表現するものの、それは"デジャヴ"や"記憶"等、その他にも呼び様はあったかもしれないが、自身が経験したことのないそれが脳裏にぼんやりと浮かび上がるその様を、彼は"夢をみる"と言い表していた。

 夢をみるようになったのは何時からだったのか見当もつかない。物心付いた時には既に夢はみていたように思う。と、彼は言う。
 母親が自身の頭を撫でた際にみた夢に彼はぼんやりとしていて、不思議に思った母は間を置いて彼へと問いかけるのだが、彼は引き続きぼんやりとしながら首を振るだけだった。
 夢をみる。幼い頃はそれが自分だけのものだとは思わず、全人類がそうなのだと認識していたそうだ。
 幼子は月日と共に成長し、やがて自身の認識の誤りに気付くことになる。どうやら、夢をみるのは自分だけ。或いは全人類ではないが、少数か。兎に角、当たり前の事ではない。と、彼は己の認識を改めた。


 背丈も伸び随分と性別を感じるようになった頃も、相変わらず夢をみる毎日だった。ぼんやりと脳内へと浮かび上がる夢。それはベットへと横になってみる本当の夢のような時もあれば、日常のふとしか瞬間に浮かび上がる、白昼夢のような時もあった。
 みる夢も様々だったと思う。思う、と表現したのはそのみた夢の内容をはっきりとは覚えていられなかったからだ。夢をみている時はしっかりと認識していたであろう内容は、その後ぼんやりと残るだけ。それでもなんだか胸が温まるような感覚をその都度覚えていた。

 リゾットは"自身だけが夢をみる"という事について深刻に考えていたわけでもなかった。その事象については毎日みるそれそのもの様に、ぼんやりと認識していただけだった。


 "夢をみる"事に付いて深く考えるようになったのは、とある出来事がきっかけだ。当時リゾット・ネエロは14になったばかりだった。

 その日彼はいとこの少女に連れられ、活気賑わう商店街にいた。少女の気の向くままに増えていく荷物を両手に、少々呆れた溜息を吐きながらも悪くないと彼は笑んで、少し前を行く彼女を追う。

 快晴の空から降り注ぐ日光の眩さを感じ、目を細めた瞬間、彼はいつもの夢をみた。されどその時の夢は、彼がそれまでにみた夢とはまったく違う気色のものであった。
 夢はまるで偏頭痛のように彼へと鈍痛を与えながら浮かんで、消えた後もぼんやりとするどころか鋭さをまして彼の脳裏を刺激し続けた。

 彼は少し前を歩くいとこの少女の背中を、瞳孔の開いた目で凝視した。
 リゾットは痛む頭でも夢の内容を浮かべ、その意味を必死に咀嚼しようとしていた。彼の脳裏には先程みた夢が繰り返し浮かび上がって彼を動揺させる。彼の脳裏では、いとこの少女が車に跳ねられていた。
 それは明らかに即死であろう事故の映像だった。

 彼は胸にも痛みを感じたが構わず、少女の名を呼んだ。
 一度目。少女は気付かない。彼は思わず駆け出していた。
 二度目。呼んだ少女の名と彼の伸ばした腕の先で少女は不意に視線を動かし目を見開く。
 少女の瞳には自らに飛び込んでくる車体が映っていた。息を呑んだのは誰だ。


 夢は予知夢なのか。彼には、分からなかった。


 リゾットは寸でのところで掴んだ腕を無我夢中で引き、少女はその力のままに彼へと倒れ込む。勢いに地面へと尻餅を着いた彼の目の前を、速度を緩めぬままに車は通り過ぎて行った。
 ぞっとした。少女の腕を引くのが後少しでも遅ければ、みた夢の通りになっていたのではないか。夢をみなければ、夢の通りになっていたとすれば…………。
リゾットは青褪めた顔のまま、腕の中の少女と目を合わせる他なかった。

 いとこの少女にとって、リゾットは命の恩人だ。だから、というわけでもなかったが少女、いや彼女は彼に異性相手としての思いを育み、彼女からの告白で二人は恋仲に関係を変えていた。
 色恋事に積極的ではない彼と初々しい彼女はなんとも拙い付き合いを暫し続けることになる。

 そんな日々の合間にもリゾットは夢をみていた。夢の中で自身へと笑いかけてくる誰かの顔をはっきりと思い出すことは出来ない。それをみている時は確かにその顔、表情をしっかりと目に映し彼女の名前を呼んでいるというのに。
 そうだ、と彼は気付く。その夢の中で己に微笑み掛けているのは女性で、彼女の目に映る俺自身の表情から察するに俺は彼女に思いを寄せている。何処か満ち足りた心中とぼんやりした頭で空を仰げば、眩い太陽にくらくらとした。

 そんなぼんやりな頭を振るってばかりのリゾットといとこの彼女との恋路は、双方の合意の下穏やかに終わりを告げた。なんだか申し訳ないが、彼女とはその後も互いに気のおける異性の友人としての関係を築いて、そこに落ち着いている。と、後に彼は言う。


 リゾット・ネエロは夢をみる。
 時がもう直ぐ其処に来ているのを気付かぬままに、リゾットは生まれ育ったシシリーの地を踏み締めた。好く晴れた空を仰げば、太陽が彼を見つめ返している。彼は僅かばかりの荷物が入った鞄を手に、その日シチリアを出たのだった。