巡った世界で彼と彼女は | ナノ






 案内された男のアパートは、私が毎日のように通うカフェの目と鼻の先に位置していた。窓際に寄り景色を覗き込んで見ればなるほど、先程まで座っていたテラス席がばっちり確認出来る。

 私は無用心にも、警戒心の一片も持たずに男の部屋へと足を踏み入れてしまっていた。彼が犯罪者云々だったらどうするつもりだと自分を説教するべきかもしれないが、そんなことより好奇心の方が上回っていたのだ。被害者になり得る要因の一例のような気もする。

「好きに座って。紅茶でも淹れてくるよ。って言うとこだけど、もう腹いっぱいだろ?」

「さすがにね」

「この部屋にあるもの何でも見て触っていい。あんたの好きにしてくれ。俺は描いてるから」

「自由にしろって?それ困るんだけど……」

 男はソファテーブルの上に無造作に投げ出されていたスケッチブックと鉛筆を手にとって、勢い良くソファへと座り込んでいた。座り込んだ後の視線は私へと釘付けにされる。私は自身の言葉通り、自由にしろと言われても困るだけで、視線を部屋の中にふらふらと彷徨わせた。
 私の目は壁の一面を占拠する本棚へと留まる。それに近寄り、並ぶ背表紙へと視線を滑らせた。

「美術には疎いから、良く分からない。……話しかけない方がいい?」

 知らぬ人物の画集に思わず男へと呟いて、まずかったかとソファの方へと振り返って私は言った。男は笑顔のまま頭を振る。

「いや、別にいいよ。一つ一つ説明しようか?」

「いえ、結構。どうせ聞いても、直ぐ忘れるから」

 さあ、続きをどうぞ。と、手と表情で促されて、私は本棚へと向き直った。
 名も知らぬ芸術家の画集を一つ手に取り、適当なページを開いたが選んだ物が悪かったのかどうなのか、何とも前衛的な作風で私には理解し難い絵が、右と左とに並んでいて眉を寄せる。何ページか捲ってみたがどれも似たり寄ったりに見えて、私はそっと画集を閉じ元の場所へと返した。

 背表紙を指で撫でる私の鼓膜を、紙面を引っ掻く鉛筆の音が振るわせる。室内が静かなため僅かな音が響くのだ。呼吸音さえ響きそうだと感じ抑えて溜息を吐き出せば、背後では男がくすり、と小さく笑った。
 私は照れているわけでもないが、指先でトンットンッと本棚を叩いた。そのままの流れで視線を泳がせば、多くの画集と詩集が並ぶ中の分厚いアルバムに目が留まる。これは見ても良いものだろうか?と、数秒思考を彷徨わせたら声を掛けられた。

「好きにしてくれって、言っただろ?」

「じゃあ、遠慮無く見るけど……」

「ご自由にどうぞ、シリョリーナ」

 許可も頂いた私は重量のあるそれを手にとって捲る。彼が撮ったのだろうか、街角の風景だったり、風に揺れる花の蕾等の様々な写真が並んでいた。
 二、三ページ捲ると、カーリーヘアの男に足蹴にされながらもにへらと笑いながらカメラへとピースをする男の姿が私の目に飛び込んできた。。何故踏まれながらこんなにいい笑顔をしているんだ。と、口を引き攣らせれば、後ろから写真の笑う男と同一人物である男が、私の手元を除き込んできた。私の肩に顎を乗せながら。
 それに少しばかり抗議の声を上げようとして、不意に気付いた。私はまだ男の名前を知らないし、彼も私の名を知らないはずだと。

「ねえ、名前は?」

「ギアッチョ」

「そう、私は」

「あ、ちょっと待って。俺の名前ってこと?」

「そのつもりだけど」

「俺はメローネ。ギアッチョはその写真のやつ。で、あんたの名前は?」

「ナマエ」

「ベリッシモいい名前だな」

 肩口で笑む彼メローネに、抗議の気持ちは何処かへ行ってしまった。それに機嫌を良くしたのか彼は私へと腕を回し、指先は私の腹の前で組まれる。
 ぴったりとくっ付いた身体は、今日知り合ったばかりの男女にはちっとも相応しく無いはずなのに、私の心臓は長く共にいる恋人や夫婦のものだと言う様に受け容れて、穏やかな心音を響かせていた。
 私は断じて尻軽女ではない。会ったばかりの男に気を許す様な人間ではないのだ。この件は私の中でも、特例である。

「なあ、明日も来てくれよ。……いや、俺が迎えに行く」

「またドルチェでも奢ってくれるの?」

「それくらい安いもんさ」

 彼は笑いながらそう言った後、私の首筋へ鼻を埋めて匂いを肺へと吸い込んだままに深呼吸を三回。そして彼自身の絡めた指先に、回した腕、密着した身体を私から離した。
 彼は踵を返し、今度はソファ上へと放り出されていたスケッチブックと鉛筆を手に取って微笑む。スケッチを再開するらしい。私もメローネへと笑い返した。