巡った世界で彼と彼女は | ナノ






 軟派-ナンパ-
 街頭などで声をかけて、男性が女性を誘うこと。

 甘ったるそうな蜂蜜色の髪を左右非対称に切った男は、何がそんなに楽しいというのか、唇をニンマリと吊り上げ私を見て、言った。

「あんたの絵を描きたい!」



 それは、何時もと変わらぬ微睡の正午の事である。
 毎日のように同じカフェの、同じテラス席で、日替わりでの食事を楽しんだ私は、食後の紅茶で一息を吐いていた。喉を落ちた後も口内へ残り、鼻へと抜ける香りが日常の幸福を孕んでほぅ、と吐息を押し出してしまう。
 出てきた時より僅かに内容量の減ったカップをソーサーへと戻して、疎らに人の行き交う通りへと視線を向ける。
 人々は春の装いで何処からかやって来ては過ぎ去っていく。それは時の流れの如く。……なんて、ね。

 独り言ちた私は再度、ソーサーの上のカップを自身の口元へと迎えた。

「相席、してもいい?」

 私は自身に投げ掛けられたであろうその言葉に、カップのふちに唇を添えたままで振り返った。
 そこにいた男は他の席が幾つも空いているというのに、相席を申し出てきたのだ。僅かに不審に思いながら眉を上げたが、その男が困った顔で……ダメ?なんて小首を傾げるものなので、私はしょうがなくその申し出を受け容れるしかないのだ。ちょっと自分好みの顔をしていたので、満更でもなかったりする。

「ディ・モールトグラッツィエ 」

 感謝の言葉を口にしながら、その男は私と対面になる席へと座った。
 男は蜂蜜色の髪を持っていて、それが日差しを浴びてきらきらと輝いて見えた。甘ったるそうなその色と、左右非対称に切られた髪形に私は暫し目を奪われたのだ。
 それに気付いたのかどうなのか、男は私の顔を見て、唇を柔らかく吊り上げた。

「どうしたの?」

 なんて聞いてくるけれど、きっと私が彼に目を奪われていたことなんて、お見通しだったのだろう。
 私はさもなんでもありませんよという風に、紅茶を飲み下した。空になったカップをソーサーへと戻すと、目の前の男が片手を上げながら店員を呼んだ。

「彼女に同じ飲み物と、なあドルチェはまだ入る?」

「え?」

「一番お勧めのドルチェを一つ。俺はレモンティーで」

 じゃ、よろしく。と、注文を言い終わった男に店員はかしこまりました。と、一礼した後に踵を返した。
 僅かに目を見開いた私と機嫌の良さそうな男の目が合う。私が尋ねようと口を開く前に男は言った。

「折角相席したのに、もう帰っちゃう気だった?先の分も俺が払うから、あんたの時間を少しばかり俺にくれよ」

 そう言いながら、テーブル上に無造作に放り出していた私の手に男の手が寄り、するりとその指先で撫でたのだが、赤の他人にやられたその行為に一片の嫌悪を抱くこと無く、寧ろそれが有り触れた日常の欠片に感じた。可笑しな話だ。私は目の前の男の名も知らないというのに。


 やがて注文通り運ばれてきた物と引き換えに、空のカップとソーサーが運ばれていき、私の目の前に鎮座したのはアップルパイだった。さわやかな芳香を放つそれはとても美味しそうで、ちらっと男へと視線をやると、笑みながら食べたら?と促された。そうなると、私も食べる他ないし食べる気しか持たない。

「っ美味しい!」

「アップルパイかあ……。俺、何となく林檎って好きなんだよな」

 檸檬も。と、独り言のように呟いて男は自身のカップを傾けていた。
 アップルパイを忙しなく突付きながらも時折男へと視線をやれば、男は必ず私をその目で見ていて少々食べ辛くなる。それでも、林檎の旨みが詰まった一皿はあっという間に私の胃に収まってしまったが。

「で、何が目的?」

 私は二杯目の紅茶を飲みながら男へと尋ねた。目的が無いままに、ただ奢りたい。だなんて、そんな話があるわけない。
 私が言えば男はやはり、待ってました!とばかりに唇を吊り上げて、私へと改めて向き直った。

「あんたの絵を描きたい!」

「…………はあ?」

「別に、裸婦画じゃあないぜ。あんたが望むなら、そっちでもいいんだがな」

 碌な目的じゃないとは思っていたが、絵を描きたいだなんてなんとも怪しい。私が怪訝な声と表情で聞き返せば、裸婦画ではないとかどうとか口にするが、それでも寄せた眉根を元に戻すには苦労する。

「下手な軟派に思えるかもしれないが、俺はこれでも絵描きでね。前からあんたを描きたいと思ってたんだ」

「……前、から?」

「あんたは毎日のように此処に来てるだろ?」

「来てるけど」

「遠目に見て描くより、声を掛けたくなったんだ。あんたには惹かれるものがあったから」

 じゃ、行こうか。そう言って席を立つ男。普通に考えれば、男の言い分なんて気にせずにおさらばするべきだろう。それでも、男が私に惹かれるものがあると言うのと同じ様に、私も男に惹かれる何かを感じていたから、その背を追うことにしてしまったのである。
 男の背で揺れる蜂蜜色の髪が、眩しかった。