わたしはあなたに近づきたい | ナノ






 任務完了後、アジトに帰宅したソーレは喉の渇きを感じた。そうなれば、階段を駆け上がるつもりであった足の方向をキッチンへと変える他無い。彼女が足を踏み入れたリビングには良い香りが漂っていた。それはキッチンの方へと足を一歩一歩と進める毎に増し、彼女は自身の鼻腔を掠めるその香りをすんすんと嗅ぎ、僅かな空腹感が生まれるのを感じた。

 元々其処に用があったのだが、多少気が引けたのかも知れない。別に良い匂いに惹かれてやって来た野良猫でもあるまいに、ソーレは自身の身体を隠しながらキッチンを覗き込んだ。そうして彼女が確認したのは、リゾットの後姿。料理内容は窺えないが、確かに彼は良い匂いの発生源であるらしい鍋を掻き混ぜていた。残念ながらエプロンはしていないようだ。彼女は匂いを食すかのように肺いっぱいに吸い込んでみた。


「……チェーナの予定は?」

 振り向くでもなく呟く様に発せられたそれは、確かに彼女に向けられたもので、ソーレは数秒の間を置いて予定がないことを彼へと告げた。彼女の視線の先で、リゾットはスプーンで鍋の中を掻き混ぜて、その一部を掬い上げて味見する。赤いそれはトマト系の何かだろうか。僅かに見えたそれに、彼女は朧気に意識を飛ばす。

「ポルチーニのミートソース」

「ポルチーニのミートソース?」

「ポルチーニのミートソース」

 名称から想像出来ない物でもないが、彼女は疑問符を付けたままに復唱し、それにリゾットは呟くように言ったそれを確認するかのようにもう一度口にした。二度目のそれはソーレの方を振り返って言った為に、彼女はリゾットと目を合わせたままぱちくりと瞬き、口を半開いた。
 リゾットは絶えず鍋を掻き混ぜる。その度に空気の流動に乗って香りが、悪戯にソーレの鼻先を撫でるように掠めていく。しかし既に彼女は、この香りを肺に充満させたままに呼吸をしている。ソーレはまた鍋の方へと向き直ったリゾットを確認して、窺うように屈めていた背を正した。そのままに歩を進め、スススと近寄り、彼の掻き混ぜる鍋の中身を覗き見た。
 良く加熱されたトマトソースからは、酸味を含んだ甘酸っぱい香りが立ち上がる。赤いソースの波間に挽肉代わりに潰されたソーセージ、それと小間切りにされた香味野菜が泳ぎ、ふんだんに使われたポルチーニ茸は食欲を誘う良い香りを発しながら漂う。ポルチーニのミートソース。それが使われたパスタへとソーレが思いを馳せた瞬間、素直な彼女の腹の虫は悲鳴を上げた。

「…………」

 リゾットはスプーンで料理を掻き混ぜて、掬う。ソーレは鳴り響いた腹の虫の前に唇を一線に引き結んで羞恥に耐えていた。その唇の前に、掬われたそれは差し出されている。覗き見ていた鍋の中身が、美味しそうな匂いを立てるそれが、唇の前に在るとしたら、幾ら固く唇を閉ざしていようと空腹を訴える胃のままに反射的にそこを開ける。誰だってそーするかは知らないが、少なくとも彼女はそうした。
 彼女が唇を開いたことで其処へと差し入れられたスプーンは、彼女がそのまま柔く唇を閉じた端から引き抜かれる。ソーレの口内へは期待を裏切らない美味な料理の味が広がり、彼女は咀嚼しながら目を細めた。美味しい。

「……嫌いじゃないなら……もう1人分くらいはあるが?」

 言い回しがなんとも不器用だが、つまりチェーナのお誘いであるその言葉に笑んだのはソーレであり、声を上げたのはちょっと前から二人の様子を盗み見ていたジェラートである。何処で誰がどの瞬間に目撃するか分かったもんじゃあない。彼女はいつも後に語る。

「ソルベー、ソーレがリーダァーと間接ちゅーしたー!」

 美味しい料理の前に緩んだ気でいたソーレは、ジェラートの上げた声と、その内容に勢い良く彼へと振り返った。そうして遠くからソルベの茶化す声も、彼女の耳は確認した。ジェラートが言った単語を脳裏で考えたリゾットは、そんなものジェラートとソーレはしょっちゅうしている為に、呆れながらジェラートを見た。見られた彼はにやにやと何時も通りに笑っていて、その視線の先の彼女へと視線を流したリゾットは、僅かに呆気に取られることになる。

「ッ!」

 耳まで真っ赤にしたソーレが其処にいた。そうしてリゾットの先で彼女は、羞恥の為に角膜へと涙を覆わせながら、俯きふるふると肩を震わせ始める。その様子を見てリゾットは、何と声を掛けるべきか考えた後、ジェラートへと視線をやった。彼はやはり口角を引き上げて愉しそうに笑んでいた。役に立たない。
 そうして何か言葉を発するべきだと踏んだリゾットが開いた唇を制する様にソーレはバッ!と顔を上げ、その視線の先でジェラートが跳び上がった。別に顔を上げた彼女に驚いて肩を跳ね上げたなんてそんなものじゃあない。本当に彼は跳び上がったのだ。ジェラートの足元には銃痕。

「ソーレが照れてる!初々しー!」

 余計な事を口走るジェラートは着地した先で首を勢い良く右へと傾けた。壁には二つ目の銃痕の出来上がり!それを見留めるでもなくジェラートは踵を返してその場から駆け出した。命懸けの鬼ごっこが始まるらしい。ダッ!と駆け出したジェラートに、ソーレも一瞬遅れながらも、彼を追う為に駆け出していた。三発目のその銃声音に、家具が破損していなければ良いが。と、リゾットはずれた思いを浮かべていた。そうして人知れず鍋の底が少し、焦げていた。