わたしはあなたに近づきたい | ナノ






 任務内容の書かれた書類の束に眉を顰めたのは意外にも、隣からそれを覗き込んだジェラートであった。それを受け取ったソーレ自身は、眉をぴくりとも動かさず常時の穏やかな笑みを浮かべているし、その隣に立つソルベの燻らせる紫煙も緩やかに流れて消えている。それを手渡したリゾットは、何時も通り感情の起伏が分かり難いままの表情で、口を開いた。

「単独任務だ」

「はい」

「……情報はそれに書かれているが、全てを鵜呑みにするな」

「嫌がらせだよなァ。こっちは命懸けだってのに」

「嫌われてるねえ」

「だな」

 ソーレは書類をぱらぱらと捲りながら、大まかな内容を確認し直す。それでも何ら変わった反応を見せることは無い。期限を意味する数字をちらりと見た後、随分と締め切りが早いものだと脳裏で呟いた。彼女の心の呟きを察したのか、リゾットはジェラートの言葉から抜粋して発言する。

「嫌がらせだ」

「幼稚ですねえ。餓鬼の集まりでもあるまいし」

「ソーレ今、珍しく口が悪かったなァ」

「命懸けだし、ね?」

「だな」

 さて、嫌がらせのために準備期間はそう無い。早速取り掛かる必要があると踵を返す三人。その内の二人の男の背に、リゾットは静かな声量で言葉を投げた。

「手出しは無用だ」

「分かってるってぇ。学生で言うペーパーテストだろ?」

「ジェラート、普通に試験で良くないか?」

「うっせ」

 音を立てて閉まった扉に、リゾットは椅子を軋ませて座った後、瞼を閉じて浅く息を吐き出した。彼女へと手渡した書類の任務内容を、閉じた瞼の裏に思い浮かべて、もう一度息を吐き出す。自身が直接命じたわけではないとしても、少々気が滅入ってしまう。身を置いている役職を思えば、その事に苦心するべきではない。だが、その立場を除いて思えば。彼の溜息を聞く者は此処にはいない。



 ソーレが単独任務に就いて数日。その間とて、暗殺チームの任務が無くなったわけでは勿論無く、ソルベとジェラートは組んで要人の暗殺に向かっているし、ホルマジオは対象の近辺調査、ビッラは今頃真っ最中で、リゾットは一仕事終えた後だった。時刻はイタリアーノがシエスタを取る時間帯。彼等の手で昼寝どころか永眠した人間がいるということだ。
 アジトへと帰宅し、シャワーを浴びて仕事着から着替えたリゾットは、手早く報告書を仕上げ、新たに送られて来ている任務内容を確認する。その他にもデスクワークをこなしていれば、時間はあっという間に経ち、席を立ったままにキッチンへと趣き、一人分の食事を作り胃に収め、それを片付けてまたデスクへと向かうために玄関を横切る。と、その時丁度扉が開いた。その隙間から身を滑り込ませた人物を横目で見ながら、彼は横切る足を止める。

「あぁ、リーダー。任務完了しました」

「…………」

「リーダー?」

「……ソーレ、か?」

「そうですけど」

 リゾットは彼女の名を呼んで確認したが、それも無理はない。今の彼女は、緩やかに波打ったブロンドを腰の辺りで揺らし、瞳にはルビーの輝きを持っているのだから。濡れたような赤で彩られている唇で彼女は、唯一何時も通りの声色を発していた。
 リゾットはソーレから香る男物の香水の残り香が鼻について、僅かに眉が寄るのを抑えることが出来なかった。それに気付いていないのかどうかは定かではないが、彼女は会話の空白の意味を幾分考えて、漸く分かったとばかりに口を開く。


「……ぁあ!すいません、ウィッグとカラコンのことですね?ターゲットの好みだったものですから……」

「……そうか」

「えーと、報告書は明日の午後まででも?」

「構わない。が、この後時間はあるか?」

「身形を整える時間さえ頂ければ」

「あぁ、……そうだな。すまないな、引き止めて」

「いえいえ」

 リゾットが道を譲ると、ソーレはそのまま玄関正面にある階段を駆け上がっていった。彼女の部屋は二階の奥にある。彼女の足音を背で聞きながら、彼は少しでも仕事を消費する為に自身の仕事部屋へと足を進めた。



 そして幾分時間が経った頃、扉をノックする音でリゾットは活字から視線を上げた。彼はそのままに椅子から腰を上げ、返事も無いままに扉へと近付き引き開けた。勿論、ノックしたのはソーレであり、リゾットが見下ろすと僅かに水分を含んだ髪が目に入る。まだ乾ききっていない髪から彼は視線を逸らし、口を開く。

「……カプチーノを淹れる」

 彼女は小首を傾げた。



 リゾットは宣言通り、カプチーノを淹れてそれをソーレへと差し出した。彼女はそれをソファの真ん中に座ったまま、Grazieと言いながら受け取って、一口啜って息を吐く。自分の好みの味が広がって、そのままに眠気も孕みそうだと彼女は思った。
 リゾットはソーレへとカップを手渡した後、普段から自身が座るソファへと腰を沈めたまま、目を細めて沈黙を保つ。

 彼女のカップの中のカプチーノが無くなってから、五分ばかり経っただろうか。小さな溜息を吐いた後、リゾットは僅かな空白の後に、言葉を紡いだ。とは言っても、ほんの少しだけ。

「…………ソーレ」

「はい」

「その、……あぁ、なんだ……」

「はい?」

 リゾットは言いよどんだままやがて唇をきつく結び、二人の間にはまた暫しの沈黙が始まろうとしていた。互いの視線は交じ合わされぬまま。
 コトリ。ソーレがカップをソファテーブルへと置いた音だ。静かな室内にそれが響いたように聞こえた彼が動かした視線の先で、彼女はリゾットへと向き直り口を開く。

「もしかして、今回の任務内容についてですか?」

「……あぁ」

「なんだか、初々しいんですね。気にすることないのに」

 本当に何でもないことのように言って笑うソーレ。その唇に乗っているのは、今はリップクリームのみだ。彼女は笑みに細めた目のままで、続けて言葉を紡ぐ。

「適材適所。女にしか出来ないことがあって、それをやったまでですよ」

「…………それでも」

 伏し目がちだったその目が漸く、真っ直ぐと彼女を見た。

「身体は大事にしてくれ。……俺が言えたことじゃないな」

 言葉の直ぐ後にふいっと逸らされた視線に、ぱちぱちと瞬きをした後の彼女は、くしゃりと今にも泣きそうな笑みを浮かべた。

「……優しいんですね」

「…………そうじゃないさ」

 外した視線の先でソーレは数回の静かな深呼吸をした後に、そのままで呟くようにリゾットへと希望を口にした。

「お願いがあるんですが、いいですか?」

「……何だ?」

「一緒に飲んでもらっても、いいですか?その、……こういう仕事の後は、兄さんと飲み合うのが習慣だったもので……」

 ソーレは少々言いよどみつつも、逸らした視線のままで言い切った。
 リゾットはちらりと彼女へと視線をやった後、数秒巡らせた思考にある日の出来事を思い出して、それも含めて口を開く。

「飲み過ぎない程度なら、付き合おう」

「あの日のことは忘れて下さいッ」

 リゾットへと向き直りながら言った彼女は、照れているのか頬を僅かに赤く染めていた。それに彼はふっと息を吐き出す笑みを見せ、所望の物を取りに席を立つ。同じ様に立とうとした彼女を制して、だ。浮きかけた彼女の腰が再びソファへと沈む。
 リゾットの姿が消えた後で彼女が吐いた溜息の意味は、彼女とて捉え切れていないだろう。時計の重なった時針と分針に鳴り響いた音に、吐息は紛れて消えた。