わたしはあなたに近づきたい | ナノ






 空腹を訴える腹のままで、ふらりとアジトへとやってきたのは彼、ホルマジオだ。己の腹を片手で擦りながら、彼は言う。誰に聞かせるでもなく、独りで。呟きの合間に切なげに鳴くのは彼の腹の虫だ。

「……スった」

 つまり、薄給のためなけなしの財産を、賭け事に費やした彼に勝利の女神は微笑まなかったらしい。彼の趣味と思い切りを止めるものは誰一人いなかったので、取り返しのつかない所までやり切ってきたらしかった。

 ホルマジオは空きっ腹を摩る。きっと冷蔵庫には何か食材が入っているはずだ。几帳面なリーダーのこと、食材が尽きていることはないだろう。そしてそれを食ってやろう。咎めることもしない男に、彼は縋り付くことにした。背に腹はかえられない。プライドなど、煮ても焼いても食えないし、腹も膨れないのだ。空腹は限界だ。食材によっては、冷蔵庫から取り出しつつ口に運んでやるとさえ思っていた。
 と、アジト内へと踏み入った彼の鼻腔を掠めるとても良い香り。それはなんとも胃にクるものだったので、ホルマジオの脳が命令を下し、彼の口内へと唾液が溢れる。彼は匂いに手繰り寄せられるように、ふらふらとその足取りをリビングへと向けて進めた。
そして押し開けた扉の隙間から、匂いは彼の鼻腔へとさらに雪崩れ込む。口内へと運び込む前から、美味いという絶対の確信を持てるこの香り。彼は唾を飲み込んだ。そのままに、己の目の前の光景にぱちぱちとホルマジオは瞬きを繰り返した。

「あ、おつかれぇ」

「あ、ホルマジオ。お疲れ様!」

 最初に彼の存在に気付いたのはジェラート。何時だったかも彼が最初だったが、それは別にどうでもいい話だろう。そして次に気付いたのはソーレ。振り向いて彼へと労いの言葉を口にした彼女は、エプロンの端を翻した。

「……なんで、勢揃いしてんだよ」

 呆気に取られたように、ホルマジオは呟いた。彼の目の前に広がったものは、己を除いたチームメンバー全員が食卓を囲む光景だった。どことなく和気藹々なその空気も、彼を唖然とさせるものだ。

 己を除いた全員、ということはあの根暗で引き篭もりがちのビッラまで、そこに加わっているということ。それに気付いたホルマジオは、スススと席に座るジェラートへと近付いた。勿論、彼の隣にはソルベが座っている。

「ビッラまで手懐けたのかあ?」

 誰が、とは言わずとも分かるだろう。ジェラートはホルマジオの問いに、彼が主語として当てた彼女へと視線をやりながら答えた。

「オレ等は忠告してたんだけど何時の間にか、ね。でもまあ、いいんじゃない?」

 にやにやして、そう言いながら白ワインを煽るジェラート。それにホルマジオはふーんと鼻で言いながら彼女を見やった後、テーブルへと並ぶ料理を見る。魚の目が彼を見つめ返していて、ホルマジオの腹は切なげに鳴いた。出来て間もないであろうそれからは湯気が立ち、アジトに足を踏み入れた時から自身の鼻腔を擽るいい香りはこいつのものだと、彼はそれを見ながらまた唾を飲み込む他無かった。

「……美味い」

 アクアッパツァ。自身の皿の上のそれをフォークで突付き、口内へと運んで咀嚼したリゾットが、独り言のように呟いた。

「だよなァ、美味い。ソーレの手料理はマードレの味だ」

「私はジェラートの料理も好きだけど。三ツ星リストランテなんて目じゃないわ」

 二人の料理人は互いの料理の腕を賞賛し合い、片方の恋人である男、ソルベはジェラートが担当したスパゲッティ・アーリオ・オリオ・ペペロンチーノを頬張り、満足そうに頷いて呟いた。

「どちらのも美味い」

「「ソルベのは不味い」」

「自覚してんだからほっとけ」

「昨日、……の」

「うん?」

 ぼそっと言葉を発したのはビッラだ。相変わらず、女性と目を合わせることが出来ない彼ではあるが、その言葉は確かにソーレへと投げ掛けられたもので、彼女もそれに反応を返して見せた。

「あれ、……僕も、好き」

「トリッパのトマト煮込み?じゃあ、また今度作る。んー、明日は……」

「なになに?予約が効くってぇなら、オレはー」

「じゃぁ、俺はー」

 ビッラが好みを告げたことで、自身の要望が通りそうなのを察したジェラートとソルベが続いた。その会話の流れを聞きつつホルマジオは、頭に浮かんだ疑問に彼等へと待ったをかける。

「待て、待て待て待て」

「何だよ」

「昨日?明日?お前らまさか、毎日此処で食ってんのか?アパートはどうした」

「「帰ってない」」

 口を合わせて言ったソルベとジェラートに、ホルマジオは開いた口が塞がらない。この二人が、二人きりになれる空間から飛び出して来ただと……!?彼は内心でも驚きに大きく口を開けていた。
 そんな彼の様子にジェラートは、にやけたままにフォークをひょいひょいっと動かしながら口を開く。

「つまりソーレが此処に定住してんなら、ここがオレ等の住まいさ」

「…………美味しい、し」

 もじもじとして言うビッラは、どこか言い訳染みた雰囲気で言ったが、その言葉から彼もアジトへと住み込み始めたことを理解できた。いや、彼はそもそも此方にいる方が多かっただろうが。

「まじか。お前ら毎日食わしてもらってんのか」

「なんか言い方が気に入らないんだけど」

「私は助かるけど。作り過ぎちゃうし、一人で食べるより、皆で食べる方が健康的じゃない?」

 と、ここで会話に混じるは腹の虫。ホルマジオは空腹を訴えるその音に、忘れていたとばかりに己の腹を擦った。思い出して目の前を見てみると、空腹の腹の虫は切望の泣き声を、さらに上げるのであった。
 そして彼は調理された魚と視線を交わらせながら、ソーレへと質問を投げ掛ける。

「アクアパッツァは……」

「……ごめんね、品切れ」

「まじかー!」

 申し訳なさそうに言う彼女に、ホルマジオは膝から崩れ落ちる様を見せ、食事にありつけなかったことを心底悔やんだ。
 そんなホルマジオを哀れんだのか、ソーレは冷蔵庫内の食材を思い浮かべながら、彼へと提案する。

「簡単なものだったら、今からでも作るけど……って、リーダー待ってください!片付けは私がやりますのでッ!」

 床へと崩れ落ちたホルマジオへと提案しながらも、食べ終えた食器を片付けようとしているリゾットへと彼女は待ったをかけた。

「これくらい構わない」

 それに断りを入れたリゾットは、重ねた食器を片手に颯爽とキッチンへと向かった。彼女は其の背に声を投げ掛ける。

「あと、冷蔵庫にドルチェが入ってますのでどうぞ!」

「…………あぁ」

 その背のままに確かに返事をしたリゾットに、彼女はまたホルマジオへと言葉を続けようとしたが、その途中で上がるのはジェラートとソルベの声だ。

「それで」

「リーダー!オレの分も持ってきてぇ!」

「俺のもよろしくー」

「ちょっと、自分達で取りに行きなさい!」

 リーダーを顎で使うとは何事か!と、ジェラートとソルベに向けて声を荒げた彼女へと、目が合わぬままでビッラが問いかけた。彼女もビッラと目を合わせぬままに、その質問へ的確な答えを返してみせる。

「クリームブリュレ。要るならあるからどうぞ?」

「……食べるよ」

 頷いた後にゆっくりとした動作で立ち上がったビッラに、此方は未だに席に着いたままのジェラートにソルベ。後者の二人は本当にリーダーを顎で使う気である。
 ソーレは漸くといった様子で、今度こそホルマジオへと言葉を続けた。

「じゃあ、希望を聞きましょうか。ホルマジオ?」

 未だにエプロンを着けたままの彼女と、今の今まで繰り広げられていた騒がしい会話に、ホルマジオは顔を上げて言った。

「なんつーか……、マードレだな」

「ドルチェならマンマの分を分けてあげるから、泣かないでね?」

 そしてホルマジオは、マードレの手料理の味を占めてアジトへと住み込むことを決めたのであった。勿論、食材費は徴収されるのだが、同じ金額でもより美味いとなれば、喜んでそちらを取るだろう。
 ソーレが手早く作った夕食を口にする彼は、自身が分けてもらうこととなっているドルチェが、既にジェラートの胃の中へと収められたことも気付かぬままに、泣き止んだ腹の虫が住むそこを摩るのだった。