わたしはあなたに近づきたい | ナノ






 草木も眠る丑三つ時とは言うが、草植物が眠ろうと暗殺者は眠らない。いや、既に寝入っている者もいたが、今し方任務完了と共にアジトへと帰宅した彼、リゾット・ネエロは未だ眠りに就いてはいなかった。

 僅かな倦怠感を抱きながらも、それを察し難い足取りを以って玄関を抜け、迷う事無く彼自身の仕事部屋へのドアノブへと手を伸ばす。其処へと踏み込んでも彼の歩みが止まることはないが、不可解な事は何ら一つも無い。その部屋の奥に位置する扉を抜け、廊下と呼ぶにも短い距離を進んだその先、そこに彼の自室は在るのだから。

 彼は返り血一つ浴びていないが、シャワーを浴びて、任務後特有の己が纏う香りを消し去ってしまいたかった。その香りを言い表すとすれば、"死の香り"だろうか。それは冷水であろうが熱湯であろうが、完全に流し切ることが出来ないことを彼は知っている。それでも、僅かな倦怠感と共に排水溝へと流れ落ちればいいと思わずにはいられなかった。

「……?」

 リゾットは自室へと続く扉の前、ドアノブへと触れる前にその動きを止めた。と、いうのも自身の部屋であるはずのそこから、人の気配を感じたからだ。彼は一度瞬いて、室内にいるのが三人、そしてその気配の持ち主が個々に誰のものであるかを把握した。
 外出時は施錠するべきであったと彼は少々悔やんだ後、今度は確かに握ったドアノブを回し、押し開けた事で出来た隙間へと身を滑り込ませた。

「…………」

 そして見て取る事の出来るような深い皺を眉と眉の間に作り上げた。彼が眉を顰めるのも無理は無い。自身のベッドの上でその三人は、折り重なるように寝入っていたのだから。
 折り重なる、人や物が次々と乱れて重なり合うとはいっても、ソルベにジェラート、ソーレは、確かに乱れて重なりあってはいたが、その単語に何所と無く感じる耽美など、リゾットのものであるシーツと共に蹴飛ばしていた。良く見れば枕も無い。
 そして、室内はアルコール臭が充満していた。言わずもがな、発生源はベッドの上の暗殺者達だろう。涎を垂らしていないことだけが、幸いだ。

 彼は米神に束の間筋を浮かべて、やがて溜息を一つ押し出した。先にシャワーを浴びてこよう。問題を片付けるのはその後だ。そうやって目の前に広がる問題を後回しにして、代わりの衣服を掴んでバスルームへと踵を返した。
 終えて帰って来た時、奴等がいなくなっていればいいんだが。と、思いながら彼はまた一つ溜息を吐く。



 そしてリゾットの小さな願望も叶わぬままに、三人は未だに夢の中であった。これには暗殺チームリーダーも、僅かに殺気を含めた気配を漂わせてしまうというもの。
 知った気配であるものの、殺気には敏感になっているらしい彼等が目を覚ます。まずはソルベが目を覚まし、それに続くようにジェラートが起き上がって伸びを一つとさらに欠伸を一回。その後にゆっくりとソーレが瞼を開く。三人共未だに眠そうにしているが、彼女が一番睡魔を従えていた。上半身を起しただけでぼぅっとしている。

「あ、リーダァーおかえりぃ」

「……」

「そんな恐い顔すんなよ」

「安心してよ。寝てただけだってぇ。睡眠の方ね」

「……命拾いしたと思えよ。さっさと、出て行け」

 ソルベとジェラートがしょうがないっといった風に、渋々ベッドから降り、そしてソーレへと振り返る。身体を起したままに鈍い反応の彼女へとジェラートは手を振ってみるが、彼女の身体は舟を漕ぎ、明らかに睡魔に負けていた。

「おーい、ソーレー?」

「……!」

 ジェラートの呼び掛けに、俯き加減であった顔がバッと正面を向いた。それにやっと起きたかと、思った男達であったが、それは勘違いである。彼女は未だに夢心地、即ち寝惚けていた。夢現で彼女の瞳は一点を捉え、それに揺れる。

 そして彼女は、寝起きだとは思えない俊敏な動きを見せて、彼等の度肝を抜く。

「兄さんッ……!」

 三人の男は皆、瞬時に反応することが出来なかった。彼女は、素晴らしい俊敏力、跳躍力を以って、リゾットへと跳び付いたのだ。
 普段より鍛えられている身体は押し倒されることもなく、反射運動で彼女の身体を受け止めたが、彼自身の意識はそれを受け止め難い。

「チエーロぉ……」

 ソーレは己の縋り付いた者を錯覚したままに、男の名を呼んだ。
 酒気の為に紅潮した頬を、今は衣服で遮られているリゾットの胸板に擦り付けながら呼ぶ。その男の名前は彼女の兄のものだ。彼は、彼女が暗殺チームへと所属する以前に亡くなっている。


 三人が各々に呆然としている中、初めに通常の平静を持ち直したのはジェラートだった。彼は隣に立ち尽くすソルベの小脇を自身の肘で小突いて、それによって交わった視線で数秒の会話を終了させる。どちらとも無く頷いた。


「……じゃ、オレら部屋に戻るわ!」

「後よろしく」

「おいッ!」

「「オレ(俺)知らね」」

 二人が出した答えは、逃避だった。
 要らぬ場面で暗殺者の身の熟しを見せた二人は、リーダーである男の静止の声も聞かぬ存ぜぬを貫いて、颯爽とした姿で部屋を後にした。

 後に残るは、深夜の静寂に素面と酔っ払い。
 リゾットは長い溜息を吐いた。それに対してソーレは寝息を吐き始めた。彼に縋り付いたままで。
 服にきつく絡んだ指先が皺を刻む。その様を視界に入れつつ、彼は思考を巡らせた。彼女は時折寝言に兄を呼ぶ。

 僅かな間考え込んだリゾットは、身体を引き摺るように(あくまで心持、だ。彼女の体重一つじゃそこまで動きは鈍らない)、足を進めた。草木も眠りに就いた今、自身だって身体を横たえ、睡眠を取りたい。
 そうして彼自身のベッドへと辿り着いたリゾットは、縁へと手を付いてベッドを軋ませた。手早くベッドメーキングを終えると、シーツの上へと身を投げる。前に、ベッドの下の隙間を覗き込んだ。手を伸ばして、引きずり出したのは彼の枕。どうやらこんな場所に追いやられていたらしい。
 そして今度こそ彼はベッドへと横になった。瞬きを数回した後、眠りに就く為に瞼を閉ざす。付属品には極力意識を向けぬままに。

 彼女を振り解くのは、力の関係で言えば別段難しい話ではなかったが、それでも、彼女の錯覚のまま兄と慕われるのに、遠い日の情景を僅かに思い出し、無理にその指先を解けなかったのだ。
 そして、草木も眠りに就いた後、漸く暗殺者も眠りに就いた。



 眠りに就く時間が遅かろうが、リゾットは何時も通りの時間に意識を浮上させ、目を覚ました。
 天井を見上げたままに瞬きを数回すると、付属品もといソーレの事を思い出して、縋り付かれていた箇所を見た後、視線で室内を探したが、見つけたのは自身の服に刻まれた皺だけ。彼女は既に部屋を後にしたらしい。
 それを確認し終えた彼は、なんら何時もと変わらない日常動作を追うのだ。



「ボンジョルノ」

 リゾットが新聞を片手に足を踏み入れたリビングにいたソーレは、何時も通り朝の挨拶の言葉を口にした。
 それに彼も言葉を返し、それを聞き遂げた彼女はソファから立つ。それはカッフェを淹れる為なのだが、何時も通りだ。彼女は自身が酒に飲まれた故に起きた事象に対して、何ら反応を示していない。

 どうせ、体内のアルコールと共に記憶が抜け落ちているのだろう。と、リゾットは一人頷いて新聞を捲った。


 そうしない内にキッチンからリビングへと戻ってきたソーレは、両手に持つカップの内、リゾットの分となるカップを彼へと差し出した。彼と彼女のカップは色、柄共に別の物。キッチンに存在するペアカップが誰と誰の物だなんて、想像するに容易いだろう。

 彼は新聞をサイドテーブルへと預け、差し出されたそれを受け取る。そして彼女は元いたソファへと戻り、腰を沈めた。隣にソルベ、ジェラートの二人はいないが、彼女が座ってるのはソファの真ん中である。
 どちらとも無く自身の手の中のカップに口を付けた瞬間、身じろいだのはソーレだった。

「にっ、苦い……!」

 カップを取り落とすことは無かったものの、滑りかけた両手で強く支え込み、彼女は訴えるように言った。
 一方のリゾットと言えば、口内に広がる味に気付いたものの、見るには反応を示さなかった。ただ心中で、甘い。と、一言呟いたのみ。彼は傾けたカップの中身を一度視線で確認した後、何時も通りに数口でそれを空けた。

 事の真相はこうだ。ソーレは己の飲むカプチーノへと入れるべき砂糖をリゾットのカップへと加え、普段の彼のカッフェを入れる時のように、自身の物には一切の甘味の加えていないままでいたという事。
 上記に加え、頬を紅潮させてカップを置いた彼女から察するに、どうやら記憶はばっちり残っていたらしい。普段通りを振舞うことは、出来なかったようだ。

「…………」

「…………」

 彼女にとっては気まずい静寂も、数十分後にはソルベとジェラートによる茶化しで騒々しくなるというのに、彼女はこの沈黙を如何にして乗り越えるべきかと、必死に頭を回転させているのであった。