「ソルベからは春の香りがする」
薄く開いた瞼にぼんやりと宙をさまよう視点、それと俺に語りかけるような静かな声量。それでナマエはその言葉を口にした。
俺は自身が燻らせている紫煙をちらりと視界に入れてから、それでいてわざとらしく煙を口内へと溜めてから隣に座るナマエに吹きかけた。彼女が煙たそうに咳込んだ。白く濁った眼球に涙を纏わせてナマエは俺の横っ腹を小突いてくる。別に痛くも痒くもない。
「違うよ、違う。直接的なことじゃないの。煙草の臭いがするのなんてとうに分かってるもの。……あっ、ソルベも、って言ったほうが分かりやすいかな?」
「春、なぁ……よく分からん」
「ソルベには分からないだろうね」
「ジェラートなら?」
「分かってくれる」
「成る程。俺の分野ではなさそうだ」
ゆっくりと唇を吊り上げて笑みを見せた彼女は、既に閉ざされている視界で瞼をもぴったりと閉じてしまった。その下にある眼球は本来の機能を失っていて尚且つ濁っているというのに、綺麗だと思う。全てを見通していそうでいるのに、恐ろしさの欠片も見せず柔らかで穏やかなそれは親しい血縁者を見るかのようなのだ。
「ん、ジェラートおかえり」
瞼を押し上げたナマエがリビングの入り口へと顔を向けて言った。開け放っていた扉の影からひょっこりと顔を覗かせたジェラートが、彼女のその言葉に「ただいまァ」と返事の言葉を返し俺にも片手を上げる。
「香りが強くなった」
「ん?えっ、オレ臭い?」
「いや、なんでも春の香りがするんだとよ」
俺とナマエが座るソファに歩み寄ったジェラートに彼女は呟くように言い、それにジェラートが僅かに眉根を寄せて自身の腕を鼻先へと近付けて臭いを嗅いでいた。返り血の一つも付けていない。だから俺はナマエが言っていた何の香りだというのかを具体的に伝えてやった。するとどうだ、ジェラートは寄せていた眉根を瞬時に緩め、成る程とばかりに頷いているではないか。やはり、この話題は俺の分野ではなかったようだ。
「春の香りねぇ……小綺麗に飾り過ぎじゃァない?」
「だって、するよ。春の香り」
「似合わねぇと思わない?」
「全然思わない。それとも恋の香りっていえば、そっちの方がいい?」
「「うわっ似合わない!」」
顔を見合わせた二人は合わせたようにそう言って笑った。つまり、春の香りとはそういうことらしい。……てんで専門外だ。
短くなった煙草をソファテーブルの上の灰皿へと押しつけた俺はジェラートへと視線を送った。同じタイミングで向いた視線は俺のと打つかる。数秒の会話。
「さ、香りじゃァ腹は膨れないよ。メシに行こうぜ。通りに新しくできたとこじゃそれこそ春を謳ってるメニューが並んでるわけだし?」
「あら、お誘いありがとう」
「よかったらお手もどうぞシニョリーナ」
「やだ今日はなんだかすごくイタリアーノっぽい」
「いつもそうでしょ?」
ジェラートに手を引かれてソファから腰を上げたナマエ。ゆるりと動いた大気の流れに乗って、ほんの僅かに甘いような香りが俺の鼻先を撫でるように通った。
「春……いや、花の香りがする」
キョトン、とした目で動作を止めた二人が俺を見てきた。
「「ソルベ……似合わないッ!」」
そして笑う。思わず口から出た言葉は戻ってくることはなく、二人の笑い声に俺は眉間に自身の掌を当てて何処かへ羞恥を逃がそうとしたが、どうにも逃げ場がない。手早くポケットから取り出した車のキーがきらりと光るのを目の端で捕らえてから、メシを食いにいくのを言葉で急かした。笑い声を押さえたり、耐えきれずに漏らしたりしながら二人が分かってるとばかりに歩みだす。緩やかに流れる大気からはやはり花の香りがして、春の香りとやらは分からない俺でもどこか心が落ち着いたような気がした。
(春の香り)