今日も今日とて騒がしい暗殺チームアジトのリビングで、蜂蜜色の髪をアシメントリーカットにした変態チックな男メローネを、くるくると癖の激しい髪質を持つ何とも短気な男ギアッチョは
たたく。
「こんのクソがッ!」
ひらがな表記で"たたく"と明記したものの、その勢いと威力は文面から受ける印象ほど優しいものでもない。固く握り締められ筋張った拳は仲間内とて遠慮する気配も見せずに、メローネの左頬を小気味好く殴り抜けた。
殴られた本人といえば床へとへたり込んだまま、赤くなった左頬には手も添えず、自身の顎の下へと細長い指を添えてにんまりと悦んでいる。
「ベリッシモいいぞ!」
如何にもメローネらしい反応だが、それにさらに腹を立ててしまうのがギアッチョである。メローネの思惑に乗せられている感が拭えないが、知ってか知らずか彼は苛立ちのままに爪を深く食い込ませながら、にんまりと形作られたメローネの頬を
つねるのだが、効果は無いと言える。
「うっぜぇんだよ、テメェはようッ!」
「でぃもーるひょ、ひいっ!」
はてさて、一番初めにギアッチョを苛立たせたのは何だったのか。拳を振るう側も拳を振るわれる側もそんな初めの問題など今となっては知りもせず。
爪を
噛む彼女、ナマエは毎度のやり取りをソファへと深く身を預けながら見ていた。形の良いそれが、自身の歯と歯に挟まれ無残に歪んでいくが彼女はお構い無し。ナマエは、彼女の目と鼻の先でメローネを蹴り潰すギアッチョの、所謂彼女さんである。
ナマエは二人のやりとりを毎日、毎日、見て思い悩んでいた。その思いは彼女の中へ毎日、毎日、積もりに積もって重くなっていた。今日という日が彼女の限界なのではなかろうか。ナマエは、じぃっとギアッチョを見つめる目に涙を薄っすらと浮かべて、爪を噛む。
がりっ!と、一際大きく噛んでしまった際に歯は爪どころか指の肉さえも削ぎ、ぷっくりと膨れ上がった赤い血がやがて耐え切れないとばかりにつぅ、と彼女の肌を重力のままに伝っていった。彼女の我慢はそれを合図にしたかのように終わりを迎えることとなる。
「ギアッチョ!」
ナマエが
叫ぶ。
普段声を荒げることも珍しい彼女のそれに、ギアッチョはメローネを睨んでいた目をぎょっとさせてナマエへと振り返った。声を上げると共にソファから身を乗り出した彼女に、伝っていた血がソファと床へと飛び散ったが、そんなものは後回しである。
「んだよ、どーした」
ギアッチョは一度メローネを蹴り上げてから彼女の側へと近寄った。ナマエは目の前のギアッチョを見上げながら叫ぶような声で訴える。
「ギアッチョ、毎日、毎日メローネを殴ったり蹴ったりしてるッ!」
「お、おう」
「それが我慢出来ないの!」
そりゃあ、どういうことだ。ギアッチョは見えない何かに強く殴られたような気分を味わった。
自身を見上げてくるナマエの瞳を覗き込みながら真意を探ろうとするが、衝撃故か頭がくらくらとしてまともに物を考えられない。心変わりか?メローネを好きになったってのか!?そんな馬鹿なことがあるのか?まさかだろ。
渦巻く彼の頭の中へ、彼女はさらに難解な言葉を吐き出した。
「メローネばっかり!」
待てよ、これは嫉妬か?ギアッチョは考えた。己がメローネばかり構う(とはいっても一方的に殴るそれ)ので構って欲しいっていうやつなのではないか。そう考えればざわついた胸中も落ち着いてきて、やきもちだなんて可愛いもんだ。と、ウキウキしだすギアッチョはナマエの頭を優しく撫でる。の、だが。
「……違う」
ナマエが唸るように呟いた。そして己の頭を優しく撫でるギアッチョの手を払い除ける。ギアッチョは目を見開いて今度こそ傍目から見ても衝撃を受けていた。
さて、未だ床へとへたり込んでいるメローネは
口の端が切れたままに二人の様子をにまにまと見ていた。実はこの男、既に全て理解していて、尚且つそれを口に出さないままに二人を見物しているのである。こいつ等ベリッシモ面白いよなあ。と彼は笑みを深くする。
メローネの視線に気付いたのかギアッチョは振り返り、彼へと大きく舌打ちを響かせた。それにさえメローネは笑みを深くするばかりで、孤を描くそれは童話に出てくる猫のようだ。
「来いッ!」
ギアッチョはソファから身を乗り出したナマエの手を
ひっぱると、立ち上がった彼女を引き連れてその足取りのままにリビングを出て行く。その二人の背をひらひらと手を振って見送ったメローネは、ナマエへと心の中でエールを送った。同属に幸あれ、と。
バタムっ。と、扉は閉まる。二人は扉の内側、つまりギアッチョの私室の中にいた。さて、見物人はいなくなった。状況を呑み込むしかない。彼は彼女の肩に手を置いて、自分の推測がまったくもって役に立たないので、問い質す他無かった。
「ナマエ、何だっつーんだよ……」
「殴って」
「……アァ?」
ナマエが吐いた言葉はイタリア語だろうか。意味が理解出来なかった。何処か異国の言語なのかも知れない。それとも、最近の"殴って"には自分の知らない意味が含まれているのかもしれない。ああそうか、隠語か!と、ギアッチョが思考を巡らし終える前に、ナマエはさらに続けた。
「私、マゾヒストなの!殴られたりっ、蹴られたほうが嬉しいの!」
「ハァ!?」
「だから殴って!蹴って!骨折って!」
「そ、そんなこと出来るわけねえだろッ!!」
思いもしなかった告白に衝撃を受けるギアッチョ。そんな彼にナマエは休む暇無く追撃を仕掛ける。彼へと詰め寄りながら、手を上げてくれと懇願する。是非とも暴力を振るってくれと興奮気味に彼女は言うが、そんなこと彼が受け容れるわけもなく。何時までも思いを受け容れてくれない彼氏に彼女はキレた。困惑顔のギアッチョの右頬はナマエの渾身の一撃を受け容れることになる。そうだ、ギアッチョはナマエに
殴られた。
「私を愛してないの!?私はギアッチョのこと好き、大好き、愛してる!だから殴ってほしいのよッ!」
泣きわめくナマエを、ギアッチョは熱を持つ右頬もそのままに必死に宥めようと奮闘する。流れる涙を擦らないように拭ったり、彼女の背中を優しく擦ってやるのだが、その加減が、彼女の機嫌をさらに悪くすることに彼は微塵も気付かない。ほら、怒ったナマエは身を捩って
抵抗する。
「殴ってよ!」
いくらギアッチョが宥めようと懇願するナマエ。
確かに、ギアッチョは女だろうと手も足も出すが、それとこれとは話が別だ。好きな女に手を上げるほど彼は下種な野郎ではないのだ。寧ろ、彼女を言いようの無いぐらいに大事に扱ってきたつもりだ。勿論、それが彼女には逆効果だったわけだが。
「私を愛してるなら出来るでしょっ!?」
「愛してるからできねーんだよッ!任務で組んだ時とか、オメーに怪我一つさせねえようにオレがどんだけ気ィ張ってると思ってんだッ!」
吐かれる台詞は決まっているのだが如何せん、ギアッチョの鼻からは赤い血がたらリと流れている。
鼻血だ。彼は己の血が伝って口内へ入ろうと気にする暇も無い。目の前のことで手一杯だ。いっぱいいっぱい過ぎるのだ。
「もう我侭言わないから、一度だけでも!」
「ッ!?」
実際、彼女が我侭を言ったことなど今の今まで無かったのだが。我侭の内容がこんなものではなくもっと平和且つ愛らしいものであったのであれば。
ギアッチョは為す術も無いままに彼女によって床へと押し倒された。背中を強か打ち付け、生理的な涙が滲む目で見上げれば、ナマエ。彼女は今、彼へと馬乗りになっている。
マウントポジションを取ったナマエは、依然として己を殴ろうしないギアッチョを煽り始める。
「ギアッチョの馬鹿!あほ!……大馬鹿ッ」
何とも言葉のレパートリーが少ない彼女は煽った末に彼がキレて殴ってくることを望んでいるようだが、ギアッチョは一向に腹を
立てないので、意味が無い。
「うぅ……ギアッチョ、好きなの。好き、なのぉ……」
「おう、オレもだ」
「馬鹿、馬鹿、馬鹿ぁ……」
ギアッチョは己の顔や身体に降って来る拳や、ナマエの零す涙を受け止めながら愛を返す。そこに彼女の望む暴力を持ち込む気など、更更無い。後で痛むであろう青痣を一つまた一つと増やしながらギアッチョは、彼女を
徹底的に愛することを既に決めているのだ。
「オレは、オメーになら殺られても良いと思ってんだ。変な、話だけどよ」
「…………」
「殴ってやれなくて、悪ィな」
「ギアッチョの馬鹿……」
「馬鹿なりにオメーを愛してんぜ。オレは」
「私も愛して、る」
涙をぽろぽろ流すナマエと、殴られて痣を作るギアッチョ。一筋縄では行かない二人の恋模様は前途多難である。
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彼と
彼女の
恋愛事情-
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ボコ題