おりじなる | ナノ






 名前は走っていた。風で制服がひらひらとぱたぱたと捲くれているというのにこの華の女学生は気にも留めずに一心不乱にただただ目的地へ急げと駆けて行く。目的地は何処だと言えば何でもない、学校より少しばかり離れた所へある古書店だ。名前にとってはこの古書店こそが何と比べようも無い特別な場所なのだが、いい年の娘が放課後に古本を漁るのか、それは如何なものか。しかし心配御無用、彼女にとっての青春とはそこにあるのだから。
 直ぐ目の先に見えた古書店に、走っていたそれを歩みに変えてやがて止まった。髪を手櫛で整え、着衣の乱れをささっと直す。乱れた息は深呼吸で幾分ましにはなったが如何せん彼の人を思えば鼓動は収まりも着かず寧ろ早まるばかりだ。こんな所で時間を浪費するわけにもいかず、名前はそろりと店先から顔を覗かせた。静かだ。だがそれは何時ものことである。この店に大概は客は来ない。来るのは客とは名ばかりの名前自身だ。それも彼女は立ち読みどころか椅子に座って売り物の古書を読破してしまう。それは、清一郎が勧めたものではあるから、別段良いのだが。
 清一郎、その男がこの古書店の主人であり、名前が此処へ通う目的であるのだが、どうも見当たらない。そこで名前はきょろきょろと辺りを覗くのを止めて、極めて小さい声の挨拶と共に店内へと足を踏み入れた。幾分広い店内だが奥へと進めば名前は用意にその人を見つけることが出来た。どうやら読書の合間に睡魔に襲われたらしい。栞を挟んだ古書は追いやられれる様に台の端へとやられ、清一郎といえばすうすうと寝息を立てて深く寝入っているようだ。
 自他共に認めるように清一郎は端正な顔立ちをしていたので、眠っていることで魅せる睫毛の影だとか、少し不健康にも思える肌の白さがやたらと綺麗だとか、

「……先生、浪漫の欠片も無い」

 とまあ、溜息と共に呟いた名前は前述のような想像を中断した。清一郎は確かに寝入ってはいたのだが、椅子へと座ったままのその体は折り曲げられ、台へと乗せられた片腕へ額を預けるようにして寝入っていたのだ。もう片腕は同じように台の上だが、此方はそのまま伸ばされて、手首から先にいたっては台からはみ出ている。だから、名前には彼の寝顔やらは少しも確認出来ないのだ。見える癖のある髪に乙女として多少の文句も込めたくなるだろう。まったく浪漫の無い奴だと。
 幾ら客足が少ないと言えど、店の主人がこうも易々と寝ていれば大事なものを掻っ払って行かれるだろうに、まったく危機感は無いのかと頭を悩ませつつ名前は傍らにある椅子へと腰掛けた。鞄を漁り、読み掛けの本を出し栞を抜いて続きを読み始めた。偶にちらちらと清一郎を伺うのだが、如何せん起きる気配は無い。それどころか、そうもしない内に名前の方がこくりこくりと舟を漕ぎ始めてしまった。一度、大きく漕いだそれに名前ははっとして頭を振る。だが、どうも睡魔は振り払えない。
 名前は本をいそいそと片付けて清一郎の後ろへと位置する、店と奥の間との境に閉めてある障子の格子戸へと手をかけた。その間には書机がぽつんとあり数枚の座布団がただただ置かれている。名前は座布団を二枚程重ね、その上へと頭を預け体は畳へと預けた。名前も寝てしまおうと思ったのだ。そう思って瞼を閉じたのだから早いもので名前もまた清一郎と同じように寝入ってしまったのだ。
 それからどれほど経ったのかはさておき、清一郎はふと目を覚ました。真っ暗と言わずとも薄暗くなってきた空に、どうやら結構寝入ってしまったようだと思いつつ頭を振ればはて、今日は名前は来なかったのかと疑問を浮かべた。何しろ名前は毎日のように此処へと通っている。清一郎は今日は早いが店は閉めてしまおうとさっさと動く。どうせこの時間、もう客は来ないだろう。店仕舞いも終え、ふと気付けば奥の間へと続く戸が少し開いている。清一郎はいつもぴしゃりと閉め切ってしまうのでその間が気になったのです。自然と目線を下にすればそこには見覚えのある名前の靴がある。なるほど、来ていたのか。それは悪いことをしてしまったと思いつつ清一郎は戸に手をかける。

「失礼します、名前さん」

 まるで人の部屋に入るように声をかけて入れば、清一郎は僅かに目を見開き驚いた。此方へは背を向けているが、名前は寝入っているようだったので。静かに近寄れば、確かに名前は寝息を立てながら眠っていた。

「まるで危機感の欠片も無い」

 清一郎は乱れた制服に目をやり、そう言ってささっと直してしまった。直し終えると名前の肩を極めて優しく叩きながら彼女の名を呼ぶ。が、なかなか起きない。今度は体を折り曲げ耳元へ口を近づけて名前さん、名前さんと呼びつつ肩を叩く。と、漸く意識が浮上し始めたようで、名前は、先生だとか浪漫がだとかを途切れ途切れに言い始めた。先生、先生、と寝惚けて繰り返す名前に、はい、はい、清一郎は律儀に返事を返す。何度目かのやり取りのあと、かっと目を見開いた名前は漸く本当に起きたようだ。清一郎は折り曲げていた体を正し、終わりにもう一度肩を叩いて、名前さんと言った。
 そうして名前は飛び起きた。清一郎は傍らの名前の鞄を手渡し外を伺う。

「加奈子さん、遅くなる前に帰りなさい」

 そう言われて名前は同じように外を伺い、思いのほか暗くなったそれに時間の経過を驚いた。しまった、これでは清一郎と面と向かった時間が今日は短すぎるではないか。

「先生、まだ帰りたくはありません」
「それは困りましたね」

 困っただのと言いつつも、そら帰れとばかりに清一郎は名前の背を押して靴を履くよう促します。名前もされるままに靴を履き手には鞄で帰れる状態ではありますが、ふてくされた様子でまだ、まだと幼子の様に駄々をこねるのです。

「どうせなら、泊めてくれても良いじゃありませんか」
「名前さん、危機感がありませんね」
「だって、先生ですし」

 名前にしてみれば好いてる人だから別に何をされても、という意味合いだったのでしょうが、先生だったら危機感を持つも何も手を出すことも無いだろう、といった一種の甘く見た発言にさえ取れるのです。清一郎は名前を起こす時同様に肩へと手をやり耳元で言いました。

「名前さん、貴女はきっと深く寝入っていたので気付かなかったでしょうが……」

 まあ、清一郎は何もしてはいなかったわけですが、こう囁かれた名前といえば顔をぱっと赤らめやれ何をされたんだ、制服がやたらと整っていたぞ、とかぐるぐると考えるしかないのです。そうして混乱する名前へ追い討ちするように続けた清一郎。

「続きを乞うのでしたら、泊めて差し上げますが。どうしましょうか」

 これには名前も赤らめた顔をこれでもかというほど横へ振り、吃りながらまた明日と言って帰る他ありませんでした。慌しく帰っていく名前へ、はい、また明日と返しながら笑う清一郎。
 彼も存外名前との毎日に退屈していないので浪漫を見せてくれそうだ。と此処に記しておこう。